1月25日
教皇のメッセージはこのビデオの2:22:28~2:36:25
慈しみの父である主よ、この海岸沿いで、世界中からやってきたこんなにも多くの青年たちと共に、十字架の道、どれほどわたしたちのことを愛しているか、そしてどれほどわたしたちのために献身しておられるのかを示すために、わたしたちのために歩きたいと望んでくださったその道を行く御子に同伴してきました。カルワリオに向かうイエスの道は、現代も続けられている苦しみと孤独の道です。主は歩き、わたしたちの社会にある自己満足的で麻痺させるような無関心に苦しむ人々の顔の中で苦しみます。その社会は、消費社会ですし、自ら消費していく社会、兄弟の苦しみがある中でそれを無視し、自らをも無視する社会です。
主よ、あなたの友だちであるわたしたちも、無感覚や不動性に流されてしまいがちです。自己満足が凌駕して、わたしたちが中風のように動けなくなることも少なくありません。あなたを苦しむ兄弟の中に認識するのは難しいことでした。見ないために目をそらしてきました。聞かないために騒音の中に逃げ込みました。叫ばないために口を閉ざしてきました。いつもおなじ誘惑です。勝ち組にとって、勝利の友人、栄光や成功、拍手の中にいる方が気楽です。有名人や勝ち組と思われている人のそばにいる方が気楽です。なんと簡単に弱者に対するいじめの文化、ハラスメントの文化、おどしの文化、自分の精神病院に執着させる文化に陥ってしまうことでしょう。
あなたにとっては、主よ、そうではありません。十字架の中で、あらゆる苦しむ人、忘れられたと感じている人々をご自分自身に重ね合わせて下さいました。
あなたにとっては、主よ、そうではありません。しばしばわたしたちが、抱きしめることや愛情をこめて頭をなでてあげることや祝福に「ふさわしくない」と定め、しかもそれを必要としていることに気付いてもおらず、無視している多くの人々をあなたは抱きしめました。
あなたにとっては、主よ、そうではありません。十字架の中で、あなたは青年一人一人の、それぞれの状況の十字架の道行きと一つになり、その道行きを復活の道に変容させます。
父よ、今日、あなたの御子の十字架の道行きは延長します。生まれることを拒まれた子どもたちや、他の子ども時代や家族を体験する権利を否定された子どもたち、遊んだり、歌ったり、夢を描いたりすることのできない子どもたち、のあえぐような叫びに延長します。ひどい扱いを受けている女性、搾取されている女性、見捨てられた女性、尊厳をはく奪された辱められている女性に延長します。教育や尊厳ある仕事の不足のために未来の希望が荒らされている青年たちの悲しい目に延長します。良心的ではない人々の罠に引っ掛かる、わたしたちの友人である若い人々の顔ににじみ出る苦悩やに延長します。その中に、あなたに仕えると言いながら、人生の中で培われる搾取や差別、虐待の罠に苦しむ人もいます。
あなたの御子の十字架の道行きは麻薬やアルコール、売春や人身売買のせいで死のらせんに巻き込まれ、未来のみならず現在すらも奪われている多くの青年たちや家族に延長します。このようにして、あなたの衣はちぎり分けられ、その尊厳はばらばらにされ、ひどい扱いを受けています。
あなたの御子の十字架の道行きは、夢見る能力、明日を創リ出したり作り上げたりする能力を失って、味気も無く、あきらめ、居心地の良さを求めて人生の表舞台から引き上げてしまった眉間にしわを寄せた青年の顔に延長します。これが、現代いちばん消費されている麻薬の一つです。モノがあふれかえっている社会のなかで拒絶や痛み、悲惨を体験し、連帯の代わりに尊厳を傷つける隠れた苦しみに延長します。しかも、彼らはあらゆる社会悪の担い手として扱われ、後ろ指を指され、責任を問われています。
あなたの御子の受難は、老人たちのあきらめに満ちた孤独に延長します。彼らをわたしたちは見捨て、切り捨ててきました。
現地の民に延長します。ここで彼らは、持っていて提供できるはずのあらゆる知恵を黙らせ、消しながら自分の土地、自分の起源、自分の文化から締め出されています。
父よ、あなたの御子の十字架は、土壌の汚染や土地が不毛になったこと、水の汚さによってその胎内で傷つき、軽蔑的扱いとあらゆる理屈を超える狂ったような消費で踏みつけられているわたしたちの母なる大地の叫びに延長しています。痛みを前にして泣き、心を動かされる能力を失った社会に延長します。
そうです、父よ、無関心な社会と居心地の良い冷笑が自らの軽薄さを消費する一方で、 そうした顔の人々を抱え、その顔の中で苦しみながら、イエスは歩き続けています。
そしてわたしたちは、主よ、何をしているのでしょうか。わたしたちは苦しみ歩み、多くのわたしたちの友だちや目に見えるようにすることを学んできた知らない人たちの顔の中で移民するイエスの前でどう反応しているでしょうか。そこでわたしたちは、いつくしみの父よ、最も小さく見捨てられた人々の中で、守られ憩いの場もなく苦しむ主を慰め、主と共に歩みます。わたしたちはキレネ人の(シモンの)ように、主が抱えている十字架の重みを軽くしようと主を助けます。平和の居場所づくりをし、契約を守り、兄弟愛の温床となり、マリアのように十字架の足元にとどまろうと気分を高めます。
マリアを観想します。強い女性です。彼女から、わたしたちは彼女の決意と勇気と同じものを持って、十字架の足元、そばにいることを学びたいと思います。回避も幻想もなく、マリアは我が子、あなたの御子です、父よ、彼の苦しみに同伴するすべを知っていました。
まなざしを保つこと、心から逃げ場を求める人のための場になること、苦しんだけれど惰性であきらめたわけではない痛み、マリアは「はい」という賛同を示す強い女性、支え、同伴する女性、逃げてくる人を迎え、抱きしめる女性でした。マリアは希望の大いなる擁護者(クストディア:【聖体顕示台】とも訳される言葉)です。
わたしたちも、父よ、支え、同伴する教会、わたしたちの横を歩く多くのキリストと呼びうる人々の人生や十字路において、「わたしがここにいます」と答えられる教会になりたいと思います。マリアから、悪い状況でも子どもや孫に同伴することをあきらめないお母さんやお父さん、曽祖父たちに見られるように、快活でたゆまぬ我慢をもって「はい」と答えることを学びます。マリアから、あらゆるものがダメになっているような状況で縮こまることなく、困難における開かれた手になろうと、スペースやホーム、孤児院、ケアセンターを探しながらやり直す人々の頑固な忍耐と独創性のうちに「はい」と答えることを学びます。マリアから、ひどい扱いや虐待、不信と暴力の文化を前に黙ることのなかった人々、黙ることのない人々に「はい」と答え、機会を与えや安全の条件を整え、保護を提供できるための強さを学びます。
マリアのうちに、見捨てられて苦しんだ人々や自分の土地や起源、家族、職を後にしたりなくしたりした人々を受け入れ、宿泊させます。父よ、マリアのように、必須のものを受け入れ、守り、促進することのできる文化を推進する教会になりたいと思います。それは、あらゆる移民を社会悪の運び手とみなすという、もっとも不合理で無責任な断罪に迎合することでもましてやそれを一般化することでもありません。
マリアから、十字架のそばで立ち続けていることを学びたいと思います。けれど、それも条件付きの心や閉じた心で行う訳ではなく、同伴することとは何かを知っている心、優しさや敬虔を知っており、敬意や繊細さと理解をもって人と接し、慈悲を理解する心で行うのです。
わたしたちは、わたしたちの起源の擁護者として持っている場所を求める年寄りを尊重し、その価値を認める記憶を保つ教会になりたいと思います。
父よ、マリアのように「いる」ことを学びたいと思います。主よ、(イエスの)十字架の足元、(いろいろな人の)十字架のもとに「いる」ことをわたしたちに教えてください。今夜、わたしたちの目、わたしたちの心を覚まさせてください。恐れや絶望のせいで中風のような動けない状態と混乱から救ってください。
主よ、「わたしはあなたの御子といっしょに、マリアと共に、そして御国を心に招き宿したいと望む多くのあいされた弟子たちと共にここにいます」と言えるようにしてください。アーメン。
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