2019年1月25日金曜日

世界青年の日、パナマ大会2019、青年たちによる教皇歓迎会演説

2019124

説教の場面は、このビデオの2:32:36~2:55:48


大好きな青年の皆さん、こんにちは!(大歓声、手を振る)
いいですね、また会えたのも、この土地をこんなにも様々な色(コロール)と熱(カロール)で満たせたのも。(大喝采)
一緒に、パナマで、世界青年の日は、改めてお祭りになります。喜びの祭り、希望の祭り、教会全体と世界にとって信仰のものすごく大きな証しです。
こんなことを思い出します。クラクフで、わたしがパナマにいることになるかを質問してくる人が何人かいました。こう答えました。「わたしはどうか知りません。でも、ペトロなら、きいといるでしょう、ペトロならね。」(拍手喝采)
そして今日、こう言えるのはうれしいですね。「今ペトロが皆さんと一緒にいます。信仰と希望を祝い、新たにするために」と。ペトロと教会は皆さんといっしょに歩きます。そしてわたしたちはこう言いたい。「みんな恐れないで。この物事を新しくできるエネルギーをもって前進して」。このやむことのない不安は、わたしたちがもっと喜びに満ちもっと素早く反応する心構えを持ち、より福音の証しをする可能性を縛ります。前進するというのは、平行線で行くもっと楽しくてもっとクールな教会や、青年たちだけの集いや、ちょっと小洒落たイベントを作ってしまうことではありません。まるでそれが自分たちを幸せにしてくれるかのように。皆さんはそういうことを考えないでください。もしそう考えたら、皆さん自信を尊重しないことになるし、皆さんを通して聖霊がわたしたちに語っていることを尊重しないことになるからです。その正反対です。皆さんと一緒に、教会のたゆまぬ新しさと若さに出会い、見出したいのです。自分たちを開きながら。何度も何度も新しいペンテコスト(聖霊降臨の五旬祭)を行う聖霊のその恵みなしには開かれないのですが。そしてそれが可能になるのは、このまえ終わったばかりの司教会議シノドスのように、わたしたちが自分たちの声を聞き合いながら、そして聞くときに補い合いながら歩こうと気分を高めてのみ、わたしたちが兄弟たちへの奉仕の中で主を伝える気分を高めてのみです。それはいつも具体的な奉仕です。ええかっこしい(評価上げ?見せかけ?)の奉仕ではありません。具体的な奉仕です。アメリカの歴史のように、若々しく、いつも若々しく歩かなければどうなるでしょう。皆さんのことを考えると、皆さんの今日のスケジュールで最初に、原住民の青年たちが歩き始めました。アメリカの最初を作った人々であり、「この」出会いにおいてまず最初に歩いた人たちです。(拍手) 大きな拍手を!力強く!
そして、アフリカ移民の子孫である青年たちも、その出会いを果たし、わたしたちの手のおよばない活躍をしました。もう一つの拍手を!
そうですね、ここまで来るのは簡単なことではなかったと察します。この大会に参加できるようにという努力や犠牲がよくわかります。何日もの準備の仕事や献身、振り返りと祈りのための集いが、その歩んだ道を、報われる道にしたのだと思います。弟子というのはある場所に到達するだけの人ではありません。決意をもってはじめ、危険に身をさらすことを恐れずに歩き始める人のことです。もし誰かが歩き始めたら、その人はもうすでに弟子なのですよ! もしじっとしていたなら、あなたの負け~。歩き始めましょう。その、道を歩んでいるという状態が、弟子の一番の喜びなのです。皆さんは危険に身をさらし、歩くことを怖れませんでした。そして今日は、パーティをする(ルンバをしている)ことができます。パーティ(ルンバ)は、それぞれの共同体で、もうずいぶん前から始まっていました。それを祝えるのです。(大喝采)
代表のいろんな旗が出てきました。文化もお国柄も異なるところからわたしたちはやってきました。違う言語を話します。異なる衣服を用います。私たちの出身国はそれぞれ、異なる歴史や状況を体験してきています。こんなにもたくさんのことが、わたしたちの違いを示すことができるのです。けれどそのどれも、わたしたちが出会うのを妨げることができませんでした。こんなにも多くの相違にも、わたしたちが出会い、一緒にいて、一緒に楽しみ、一緒に祝い、一緒にイエス・キリストへの信仰を宣言することを妨げることができなかったのです。どんな違いも私たちを止めなかった!(雄叫び、歓声)
それができるのは、わたしたちを一つにし、わたしたちを兄弟や姉妹のようにしてくれる誰かがいるからだと知っています。大好きなアミーゴ(友だち)の皆さん、皆さんはこうして出会うために、多くの犠牲をしてきました。そうやって皆さんは、「出会いの文化」のほんもののマスター、アーティストに変容していきます。みなさんは、この体験で、「出会いの文化」のマスター、アーティストに変容していくのです。「やぁ、元気、じゃまた」というのではないですよ。出会いの文化というのは、わたしたちが違いを抱えながらも、皆共に抱く愛をもって、その違いある地点から同じ道を共に歩むようにするのです。皆さんはそのしぐさやその態度、そのまなざしやその望み、特に皆さんがもっているその感受性をもって、分裂に集中させ、分裂に躍起になるようなあらゆる演説を否定し、その権威を認めません。「自分たちのようではない人たち」を除外したり追放したりすることに躍起になるような演説を。アメリカの色々な国々でわたしたちはこう言っていますよね。「彼らはGCUGente como Uno(自分のような人々)」ではないのです。皆さんは、「わたしたちは皆、自分のような人々だ」というのを否定するのですよ! 皆、それぞれの違いを持っているのです。(大拍手)
そしてこれは、というのも、ほんものの愛は正統な相違を相殺しない、というそういう匂いがかぎ分けられるからです。むしろ、より上位の一致の中で調和させるのです。繰り返しますよ。「ほんものの愛は正統な相違を相殺せず、むしろより上位の一致の中で調和させる」のです。これ、誰が言ったか知っていますか? 知ってます? 教皇ベネディクト十六世ですよ。今、この放送を見てくれています。拍手を送りましょう。ひとつここから、彼に挨拶を送りましょうよ。彼もテレビでわたしたちを見てくれているんです。みんな、手を振って教皇ベネディクトに挨拶を送りましょう。(歓声、拍手、手を振る姿)
その反対に、嘘の父、つまり悪魔はいつも分裂し喧嘩する民を好みます。悪魔は分裂のマスターです。そして共に働くことを学んだ民を恐れます。これが人を見分ける判断基準になります。橋の建設者なのか、壁の建設者なのか。恐れの種をまきながら壁を作る人は、人を分裂させ、邪魔しようと求めます。皆さんは、橋の建設者になりたいですか? 何になりたいですか?(青年たち:「橋の建設者に!」) よく学びましたね。そういうの好きですよ。(笑い)
君たちが、わたしたちに出会うことを教えてくれます。それはマイム(ふり)をすることではありません。同じことをし、同じことを繰り返しながら、みんなが同じように考えるように、おんなじように生きるように、ということでもありません。そういうのはオウムや九官鳥がやっていることです。出会うということは、ほかのことに向かって励まし合うことです。出会いの文化において、共通の夢を、生き生きと、いっしょに保つために大胆であるようにとの呼びかけ、招きが中心にあります。わたしたちには大きな違いがあります。みんな違う言語を話します、違う服装をします、けれどお願いです、共通の夢を持つことにささげなさい。それなら、わたしたちにもできるのです。そのことは、(違いある)わたしたちを相殺することなく、豊かにするのです。大きな夢、だれもが宿れる夢というのは、イエスが自分の命をささげて十字架にかかる時に抱いていた夢です。それは、聖霊が聖霊降臨祭の日に一人一人の男性たち、一人一人の女性たちの心にちりばめられ、その炎をタトゥーのように刻みこんだ時の夢です。一人一人の心、君の、あなたの心、そしてわたしの心にも刻み込まれたものです。あぁ、そこの君の心にもですよ。(歓喜)
スペースを見出し、成長し、展開するのを期待して、タトゥーのように彼らに刻み込んだのです。一つの夢。「イエス」という名の、御父によって蒔かれた夢です。彼のような神、御父のような神に派遣された者は、信頼と共に、一人一人の心の中で育ち、生きるでしょう。一つの人格を持ち、わたしたちの血管を通り、「わたしがあなたがたを愛してきたようにあなたがたも互いに愛し合いなさい、そうすれば他の人たちはあなたがたがわたしの弟子であると分かる」と聞くたびにわたしたちを躍らせるほどに喜ばせる一つの具体的な夢。わたしたちの夢は、どんな名前でしたか?(二人くらい「ヘスース(=イエス)!」) 聞こえませんよ。(みんな「ヘスース!」) よく聞こえない。 (もっと大きい声でみんな「ヘスース!」) いい感じですね。
このあたりの土地の一人の聖人が、聞いてくださいね、このあたりの土地の一人の聖人がこういうことを好んで言いました。「キリスト教は読まなければならない諸真理の集合体でも、守らなければならない法や禁令の集合体でもありません。そんなキリスト教は不愉快な悪臭を放つものになります。キリスト教というのは一種の人格です。わたしを愛してくださった方、わたしが愛するようにと訴えかけてくる方です。キリスト教はキリストです」。みんなで言いましょう。「キリスト… (みんな:「キリスト教はキリスト!」)もう一遍。(みんな:「キリスト教はキリスト!」) もう一度。(みんな:「キリスト教はキリスト!」)それは、キリスト、命をくださったという夢を、わたしたちを愛してくださった方と同じ愛で愛するということを展開させることです。彼はわたしたちを愛してくれましたが、半分までではありません。愛してくれましたが、ちょびっとではありません。わたしたちを完全に全部愛してくれたのです。わたしたちをぬくもり、愛で満たし、命をくださいました。
自問しましょう。わたしたちを一つに保つものは何か。なぜわたしたちは一つなのか。何が出会うためにわたしたちを動かすのか。何だか知っていますか? わたしたちを一つに保っているのは、「わたしたちが愛された」ということを知っていることからくる確かさです。わたしたちははらわたがちぎれるほどの愛をもって愛されました。黙っていたくもないし、黙っていることもできません。この愛は、同じ方法で、つまり愛をもって応えるようにとわたしたちに挑戦してくる愛です。キリストの愛こそが、わたしたちを駆り立てるのです。注目してください。わたしたちを一つにする愛は、わたしたちを蹴り飛ばしたり押しつぶしたりしません。この愛は、疎外せず、黙らない愛です。人を辱めず、傷つける言葉を言わない愛です。これが主の愛です。日々の愛です。礼儀正しく敬意に満ち、自由から来て自由のためにある愛です。癒し、立ちあがらせる愛です。これが、転ぶことよりも起きること、争うことよりも和解、断罪するよりももう一度チャンスを与えること、過去よりも未来を知っている主の愛です。これは静かに手を伸ばして奉仕し献身する愛です。わたしたちをからかったり馬鹿にして笑ったりしない愛です。他者のためにいつも手を伸ばして自らを差し出す謙虚な愛です。これが、今日、わたしたちを一つにする愛です。質問します。この愛を信じますか? (みんな:「スィ(=はい)!」) もう一つ質問します。この愛のために苦労する甲斐があると思いますか? (みんな:「スィ!」) イエスはあるとき、一人の人とこのことで問答をして、結局こう言うに至りました。「そうですね、じゃぁ、あなたも行って、おなじようにしなさい」。その名はイエスです。みなさんも行って、同じようにしなさい。愛することを恐れないで。その具体的な愛、ぬくもりを持った愛、奉仕という名の愛、命を削るその愛を恐れないで。
これが、招きを受けたマリアにもなされた問いです。天使はマリアに問いました。この夢をその胎内に抱えて行くことを望むか、それを命、肉として生み出したいか、と。マリアの当時の年齢は、ここにいるあなたたちの多くと同じ年齢でした。みんなみたいな女の子の年齢でした。そしてマリアは言いました。「ここに、主のはしためが控えております。わたしのなかで、あなたのお言葉通りのことが実現しますように」。
目を閉じましょう。みんな。そして、マリアのことを考えましょう。馬鹿な子ではありませんでした。心が感じていたことは何かを知っていました。何が愛だったか知っていました。そして応えました。「ここに、主のはしためが控えております。わたしのなかで、あなたのお言葉通りのことが実現しますように」。このわずかな沈黙の時間の中で、イエスが皆さん一人一人に、あなたに、君に、君に、あなたに、語り掛けるように。やってみたいですか? 求めますか? マリアのことを考えなさい。そして「わたしは主に仕えたいです、わたしのなかで、あなたのお言葉通りのことが実現しますように」とお答えなさい。マリアは、気分を高めて「はい」と答えました。神さまの夢に自分の命をささげるほど気分を高めました。これが、今日、わたしたちに問いかけている内容です。その手、その足、そのまなざし、その心をもって、神さまの夢のためにささげたいですか? 新しい地平線を開き、あなたを、想像したことも考えたことも、夢見たことも期待したこともない道へと導き、喜ばせ、心に歌わせる御父への愛を求めますか? 天使に答えたマリアのように言ってみましょう。「ここに、しもべたちが控えております。わたしたちのなかで、あなたのお言葉通りのことが実現しますように」。ここで声に出さなくていいです、一人一人、自分の心の中で答えてください。問いの中には、沈黙によってのみ答えられる問いというものがあります。
大好きな青年の皆さん、この大会で希望を一番もたらしてくれるものは、最後の決議文書のようなものでも、みんなで作って納得した手紙でも、実行に移された計画でもありません。そうはなりません。この大会で希望を一番もたらしてくれるものは、皆さんの顔つきと、一つの祈りです。これが希望をもたらすのです。皆さんが、変化を遂げた心で、この変化した心で唱えることを覚えた祈りをもって家に帰るときの顔つき。この大会で希望を一番もたらしてくれるものは、皆さんの顔つきと祈りになるでしょう。そして皆さんは一人一人、他者や主と出会うたびに生まれてくる新しい力を帯びて、わたしたちを兄弟にするその夢を思い起こさせ、それを活き活きと保つ聖霊に満たされて、家に帰るでしょう。そしてわたしたちは、世界の心を凍らせないようにする務めへと招かれています。こんな感じでわたしたちはここで出会いました。こんな感じでわたしたちはやっています。いつも目を上げて、こう言うことができます。「主よ、あなたがわたしたちを愛してくださったように愛することを教えてください」と。わたしといっしょに繰り返してみたいと思いますか?(みんな:「主よ、あなたがわたしたちを愛してくださったように愛することを教えてください。」)もう一度。(みんな:「主よ、あなたがわたしたちを愛してくださったように愛することを教えてください。」)もっと強く、いびきみたいですよ。(みんな:「主よ、あなたがわたしたちを愛してくださったように愛することを教えてください。」)
まぁ、よい子で、お利口さんでいたいので、感謝せずにはこの集いを終えるわけにはいきません。ありがとう、大きな理想をもって世界青年の日、ここに見えるすべてを準備してくれた皆さん、ありがとう。大きな声で。(歓声) ありがとう、勇気を出して建物を建てたり、ホームステイをさせてくれたり、子どもたちが集まるのを見たいという神の夢に快く「はい」と応えてくれた皆さん。ありがとう、ウジョア枢機卿と、このパナマで今日という日が単に二つの海をつなぐ「運河」ではなく、神の夢が出会い続けていく奔流となり、育ち、増え、地上のすみずみまで輝きだすための「運河」となるように助けてくれたチームの皆さん。
アミーゴ(友人)のみなさん、アミーゴ(男友達)のみなさん、アミーガ(女友達)のみなさん、イエスが皆さんを祝福してくださいますように。心からそう望みます。アンティグアの聖マリアが、皆さんと共にあり、皆さんを守ってくださいますように。そうしてみんな、恐れることなく「ここにいます。実現しますように」と言えるようになりますように。ありがとう。



(えー、ちなみにビデオの2:12:35から7分半にわたって歌われている「エ~マヌエール」というやつ、ワールドユースデーで本当に愛され続けている2000年の時のテーマソングです。日本語版も作ってあるので、この機に味わってみてください。結構いい内容の歌だと思います)


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