2019年1月22日
パナマ大司教区 ホセ・ドミンゴ・ウリョア司教
サンタ・マリア・ラ・アンティグア広場にて
説教の部分はこのビデオでは2:03:14-2:24:20
まず、皆さんのようにこの集いの主役である、共に出会い、新しい世界と新しい教会は可能だという夢を共に抱くために140か国以上からやってきた巡礼者の皆さんに挨拶させてください。
愛する青年の皆さん、ありがとう。なぜなら皆さんはあらゆる困難を前にしながら障害物を飛び越えることができ、この小さな村に集まろうと望んでくれたからです。この小さな教会は、今日この瞬間から、青年の中心街に変貌した、と言っても過言ではないでしょう。青年について語る、ということは、希望について語るということです。世界の変化も、教会の変化も、愛する青年の皆さん、皆さんの手を通してのみ訪れるのです!
愛する青年の皆さん、皆さん全員がここにいてくれて、わたしたちの喜びはものすごく大きいです。パナマは今日皆さんを、心を開き、両腕を開いて迎えます。サンタ・マリア・ラ・アンティグア(古来の聖マリア)という呼び名のもとマリアの手を通して信仰がもたらされたこの小さな国で、出会おうという呼びかけに応えてくれてありがとう。皆さん一人一人が「道」「真理」「命」であるイエスさまとの出会いを体験できるように、国を挙げてできるかぎりの努力をしました。
わたしたちは、ティエラ・フィルメ(確固とした大地=植民地時代パナマの大西洋岸地方はこう呼ばれていた)における最初の教区です。常に聖母マリアの守護のもと、あの1513年9月9日以降、ここから残りのアメリカ大陸全体に福音が輝き出て行きました。マリアはいつもわたしたちと共に歩んでくださいました。ですから、この世界青年大会におけるイエス・キリストとの集いにおけるこの歴史的イベントが、マリアによって盛り立てられ、マリアによって盛り上げられ続けるのは、おかしなことではありません。ここでわたしたちは年代的な青年達も、青年であるのをやめるのは、夢描くことを手放したときだけですから60歳を越えながらも若さを感じている人も、皆一つになります。
福音宣教の星であるマリアが、教皇フランシスコによってみなさんに示された初めての世界青年大会において、その開催地としていただいたことに、神に感謝しましょう。若いマリアは勇気の模範です。神が彼女を選んだその計画を達成する心構えがありました。ここに今回の世界青年大会のテーマが浮かび上がってきます。「主のはしため、今ここに控えております。お言葉通りのことがわたしの中で実現しますように」。今日、わたしたちは皆、「パパ・フランシスコ、わたしたちを信頼し、存在的また地理的に中心から外れた場所で、世界青年大会を開かせてくれて、ありがとう」言えるのではないでしょうか。わたしたちが、この国で、希望のない中で共に生きる多くの青年、特に原住民やアフリカ移民の子孫の青年たち、ほとんど祖国からの応答がなく希望にすがって他国に飛び出して麻薬取引や人身売買、犯罪や似たような社会の悪にさらされながら移民中の青年たちの困難な状況に対しても、教会にとっても、信仰を持つあらゆる共同体の人々にも、香りよい香油となりますように。
けれど特に、中米司教協議会秘書との交わりのうちに、中米の司教は全員、皆さんが大切な存在であること、皆さん全員が、この小さな国で巡礼を実現するために最低限の環境を作り上げた人間的機構であることを理解しています。
愛する巡礼者の皆さん、皆さんは、この地球というわたしたちの惑星の様々な国から来て、全世界の小さなかけらに出会うでしょう。わたしたちの奉仕の歩み、出会いの点となる歩み、信条も人種も年齢も性も差別しない多様性における一致の歩みは、祝福された一つの国へとわたしたちを変えてくれるでしょう。
皆さんがそこに来てくれているおかげで、この国は、この瞬間から皆さんといっしょに、世界の青年の首都になります。そこで、暖かい人間的ぬくもりも、この時期の気候的な温かさも、仲間たちと共に時間を過ごし、夢や希望、人生計画を分かち合う最高の環境を作っています。そこでは聖霊の力によって、簡単ではないけれどマリアのような信頼を神に置きさえすれば不可能でもない愛の革命を起こす献身の約束へと導きます。
巡礼者の皆さん、皆さんが体験しているこの国は、巡礼者たちがパナマの諸教区を始め、コスタリカの諸教区において今週、教区の日々に始まって体験してきたことの一つのサンプルです。わたしたちの国民は、皆さんを迎え、皆さんと持ち寄った伝統、多民族的多文化的豊かさを分かち合う準備ができています。けれど特別に、この中米の一角は、小教区やホストファミリーにおいて、わたしたち個々人の歩みや共同体的歩みの中で、わたしたちの間で働いておられる一柱の神への信仰の喜びを分かち合い、愛情や近さ、兄弟愛といったわたしたちの持てるかぎり最高のものを差し上げ、皆さんを本物の家族、神の家族のメンバーとして迎えるために準備されています。
愛する青年の皆さん、世界青年大会のこれからの数日の間、皆さんには、様々な国の司教たちとの要理の場に顔を出す機会があるでしょう。興味深い人格形成の場を分かち合えることは間違いないでしょう。「ゆるしの広場」:ゆるしの秘跡と、神との和解の場です。「青年の祭典」:いろいろな国の様々なタレントが精神を養うために腕を振るいます。そして何よりも、わたしたちはイエスと出会うため、聖体のイエス、霊的な糧であるイエスと出会い、そこから人生の挑戦に立ち向かうために来ました。
愛する青年の皆さん、この皆さんとイエス・キリストとの出会いは、自分自身や、実に刹那的で絶望的に体験させられる、思考も精神も傷つけ、結局は存在的空虚さを満たすことのない、偽りの幸せの探求を押し付ける、正しい価値に反する体制的システムと向き合うという機会にもなるべきです。
青年の皆さん、主の呼びかけは、まだ生き続けています。それは永続的で、強烈で、ぬくもりに満ちています。イエスさまだけがこのような呼びかけを伝えることができます。きっと教会として、わたしたちは皆さんに上手にこれを十分な明確さを持って伝えることができずに来てしまったかもしれません。なぜなら、愛する青年の皆さん、時々、わたしたち大人は、皆さんのようには考えられず、皆さんのことを聞きたがらないこともあり、耳が聞こえず、わたしたち大人こそが、空虚だからです。それでも、現実は別のものです。皆さんには、同伴、特に、皆さんを聴くことのできる人による同伴が不足しています。皆さんは簡単には感動させられません。
愛する青年の皆さん、ありがとう。なぜなら皆さんにはできあいのフレーズや劇的な演説や熱狂的にさせるスローガンは通用しないからです。イエスの時代と同じように、愛する青年の皆さん、皆さんは、知性的にまとめられた勉強上の神の概念ではなく、自分の足で歩きまわって内容と経験に満ちた証し人、何キロも歩いている大人を必要としていると、わたしたちは知っています。皆さんは、神について語る人ではなく、自分の生き方で神を示す人を求めています。
愛する青年の皆さん、どんなに繰り返しても繰り返し足りないと思いますが、皆さんは、この世界青年大会のほんものの主役です。教会は、この青年たちがもたらす春(青春)を待ち望んでいます。皆さんを信頼しています。皆さんに多くを期待しています。人類と教会が求めている変化と変容のための本当の姿は、皆さんの手に、皆さんの能力に、皆さんのより良い世界への展望にあるからです。
この大きな挑戦に加わるために、皆さんは自分自身の歩み、社会の歩み、文化の歩みをよく知り、特に信仰の歩みを知りながら、意識的に準備をしなければなりません。そうしてのみ、おじいさんたちや年輩者の手から、福音の喜びをもって、社会を傷つけるあの不正や悪の状況を変えることができるのです。
マリアのまなざしに、青年の一人一人が、識別の美しさを再発見することができるでしょう。マリアの心の中で、親密さのぬくもりや証しと福音宣教の勇気を体験することができるでしょう。ですから、この大会はマリアにゆだねられています。マリアに信頼するということは、助けてほしいと求めたり、色々なことに取次ぎを求めることだけではありません。マリアのようにふるまうことも含まれます。いとこのエリサベトに対して行われたような、奉仕するマリアの心構えに倣いましょう。息子の受難を体験し、忍耐を持って喜びに満ちたイエスの復活を待っていた時にマリアが経験したように、剣がわたしたちの心を貫くことに備えましょう。教会で、この大会の準備の間、ほかの人たちのために自分の能力や時間を割くことのできる青年たちを見てきました。若いリーダーシップとタレントを寛大に差し出してこの大会を支えてきました。時宜が良くても悪くても、献身していました。これは、皆さん青年たちが思いもよらない計画を受け入れることができるということのサンプルになります。原住民の青年たちやアフリカ移民の子孫の皆さんとの関わりにおいても素晴らしい体験ができました。その現実の輪郭をしっかりとらえるために、大会の前から集いが繰り返されてきました。これが、この大会の中心を流れていきます。この地域での世界青年大会は、彼らの状況を目に見える形にせずにはありえません。なぜならこの大陸で、貧困に追いやられて疎外と差別の状況に生きている多くの人々を代表することになるからです。様々な宗教や主義主張の若いリーダーたちが、自分の文化や民族性から、法律や教育、仕事、女性の訴えを、社会的なスペースのみならず、宗教的スペースにおいても、政府に訴えかけ、差別や疎外の状況に対して共に答えを生み出すことができることを示してきました。
原住民の青年たちは、『ラウダート・シ』に照らして、自らの文化の豊かさから、生きた民の記憶、母なる大地との調和や、ありうる世界の建設のための彼らの参与の重要性に焦点を当てました。そして原住民の青年たちにとって、教皇フランシスコのメッセージはとても励みになりました。愛する青年の皆さん、ここに紹介したいツールがあります。それは「DoCat」という自己形成のためのツールです。それは、わたしたちの青年への同伴において、若きリーダーシップを強めるであろうテクノロジーのツールを通して、教会の社会教説の学習を提案しています。これは、教皇フランシスコの夢です。そしてわたしたちも、特に中米の愛する若き巡礼者の皆さんがこれを受け止めてほしいと思います。なぜなら、信仰を持って逆境に対抗し、愛と正義の革命を実現するための一つの方法が、教会の社会教説にあるからです。教皇の中米の青年たちへのプレゼントが、この「DoCat」で、これは世界青年大会の間に皆さんに配布されます。これは責任をもって自分の主役の役回りを受け止められるようにできるチャンスです。使徒的勧告において、現実世界での聖性への呼びかけについて、教皇フランシスコはこう強調しています。「聖性には危険と、挑戦とチャンスが伴います。なぜならわたしたちが愛のために聖なる者、非の打ち所のない者となるようにと、主がわたしたち一人一人を選んでくださったからです」。そして聖なる者となるということは、教皇フランシスコが言っているように、御絵に描かれたような顔をする事ではありません。違いますよ、愛する青年の皆さん。誰もが皆、聖なる者となることができるのです。犯してしまった罪のせいで、わたしたちの存在にはそんなに価値がないと考えてしまうようなときですら、です。教皇はわたしたちにこう言います。「聖なる者となる、ということは、流れに逆らうこと、泣くことができること、苦しみが存在する状況から逃げさせようとしてわたしたちを余計苦しめる、苦しみをごまかす論理から抜け出すことです。聖なる者になることは、わたしたちを霊的物質的な腐敗やわたしたちに悪をもたらし神を侮辱することから抜け出させます。聖なる者は、自分を守る力のない者を守り、生まれていない子を守りますが、みじめさの中に生まれた人をも守ります。移民を守り、正義を求め、祈り、共同体に生きこれを愛します。喜びがあり、ユーモアのセンスがあります。いつも戦い、中途半端な生き方を脱し、神のいつくしみを生き、それを隣人と分かち合います」。愛する青年の皆さん、聖なる者であるということは、神話ではありません。一つの現実です。そしてそのために、わたしたちは巡礼の旅をしてきたのです。聖なる者となるため、ポッレのマルティン、リマのローサ、フアン・ディエゴ、リオのホセ・チャンセの子、聖ヨハネ・ボスコ、フクシャマリア・ロメロ・メネッセ、ヨハネ・パウロ二世、そして特にオスカル・アルヌルフォ・ロメロのように命の証し人となるためです。彼らは皆、それぞれの現実から、わたしたちに、どんな文化においても、どんな人種であっても、性別や歳の差に関わらず、聖性の生き方は可能であるということをわたしたちに示しています。神や隣人に対する彼らの寛大な命の捧げは、彼らを聖性へとたどり着けるようにしました。
愛する青年の皆さん、おそれないで。今日の世界で聖なる者となる勇気を持ちましょう。そのことで皆さんの若さや喜びを手放すことにはなりません。正反対です。皆さんがこの期間に世界に対してしているように、聖なる者となり、幸せになることは可能なのです。愛する青年の皆さん、大人たちをナーバスにし続けてください。わたしたちを本物のキリスト者、本当に幸せな存在にするのを妨げるものを拒み続けてください。わたしたちは全員、わたしたちのただなかにおられる神の愛の宴のために準備ができています。けれど、忘れないでほしいのは、わたしたちを腕に抱いて連れて行ってくれるのは、マリアだということです。教皇フランシスコは、イエス・キリストの代理者として、わたしたちを信仰において確かなものとしてくださるでしょう。
改めて、愛する青年の皆さん、この教会に、この国にようこそ!そして教皇フランシスコが言っているように、頭痛のタネになり続けなさい。わたしたち大人たち一人一人をナーバスにし続けなさい。神さまがわたしたちを祝福してくださいますように。アーメン。
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