1月27日(日)
ミサの説教は1:28:54-1:43:24
終わりの挨拶は2:32:14-2:35:45
「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(ルカ4章20-21節)
福音は、イエスの公の宣教の開始をこのように紹介しています。シナゴーグ(会堂)で行われ、イエスの知り合いや近所の人たち、おそらく子供のころに律法を教えてくれた要理担当者などもいてイエスを囲み、成長した姿を見ています。教師の人生にとって、子どもが人格形成を果たし、共同体の懐の中で成長して、自分の足で立ち、神の夢を宣言しそれを実践するためにみことばを手にするという、大切な瞬間です。その時まで、声に出して読まれた言葉は単なる将来の約束でしたが、イエスの口の中では、現在においてのみ語られうるものとなりました。現実となったのです。『今日、実現した』と。
イエスは神の今を啓示し、神はわたしたちと出会うために出てきて、わたしたちも「貧しい人に福音を、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由をもたらし、主の恵みの年を告げる」(ルカ4章18-19節参照)という神の今の一部を成すようにと呼びかけます。それは、イエスと共に現実になり、顔となり、肉体となり、理想的な状況やその表明のための完璧な状況を待つことも、その実現のために言い訳を受け入れもしないいつくしみに満ちた愛となる、神の今です。神の今は、それぞれの状況やそれぞれのスペースをふさわしくちょうどいい機会にする神の時間です。イエスのうちにそれは始まり、約束された未来を生きたものとします。
いつですか。今ですよ。けれどあの時にイエスの声を聞いていた人たちの全員が招かれ呼ばれたと感じたわけではありません。ナザレの近所の人たちの全員が全員、知っていて、成長を見てきて、それで自分たちがずっと待ち望んでいた夢を行動に移すように招いてきた人物を信じるために準備ができていたわけではないのです。しかも、こんなことを言いました。「でも、この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4章22節参照)。
わたしたちにも同じことが起こりえます。必ずしもいつも神がそんなにも具体的で、そんなにも日々の出来事で、こんなにも近く、こんなにも現実的で、さらにはこんなにも目の前で、近所の人や友だちや家族のような知り合いの誰かを通してはたらくことを信じられるわけではありません。必ずしもいつも、主がわたしたちを、こんなにもシンプルだけれど確実な仕方でその御国において主と共に働き、手を泥まみれにするようにと招きうると信じられるわけではありません。「神の愛が、その苦難と栄光の浮き沈みのすべてをもって歴史のなかに具体的でほとんど体験できるほどのものとなる」(ベネディクト16世、2005年9月28日、一般謁見)ということを受け入れるのは難しいのです。
そしてナザレの近所の人たちのように行動してしまう機会は、少なくありません。距離を置いた神を好んでしまう。美しく、善く、寛大で、きれいに描かれているけれど距離があり、特に、厄介ごとを持ち込まない、「よく飼いならされた」神を好むのです。なぜなら身近で日々関わる神、友であり兄弟である神は、近くにいること、日々のこと、特に兄弟愛を学ぶようにとわたしたちに求めるからです。彼は天使のような表明やスペクタクルとなるような出現をしようとは望まず、兄弟であり友人、具体的で家族的な顔をわたしたちにプレゼントしたいと望まれたのです。神が本物なのは、愛が本物だからです。神が具体的なのは愛が具体的だからです。そしてまさにこの「愛の具体性がキリスト者の人生の本質的要素の一つを成すものなのです」(ベネディクト16世、2006年3月1日説教参照)。
わたしたちも、ナザレの近所の人たちと同じような危険に陥る可能性があります。わたしたちの共同体で福音が具体的な生き方になろうすると、わたしたちはこう言うかもしれません。「でもこの子たちは、マリアさんやヨセフさんの子どもじゃなかった? ○○さんの兄弟で、親せきは△△さんでしょ? この子たちは、自分たちが育ててきた青年たちじゃなかった? まぁ口をつぐんでいて。信じられるわけないでしょ。あそこの子は、いつもサッカーボールでガラスを割ってた子じゃなかった?」 このようにして、神の国の預言と宣言になるために生まれた子は、飼いならされて貧しくされてしまうのです。神のみ言葉を飼いならそうとすることも、日々の誘惑です。
しかも大好きな青年の皆さん、皆さんにも、皆さんの使命や召命、さらには皆さんの命までもが、未来のためだけで現在とは無関係の約束であると考えるたびに、同じことが起こりうるものです。将来の青年になる、ということは自分の出番が来るのを待っている待合室の同義語であるかのようです。そして、その出番の時「までの間」、生理的によく整ってはいるけれど結果の無い、よく装備されて保障されており、「確実になった」ものすべてをかかえた将来をわたしたちや皆さんが勝手に作り出すのです。わたしたちは、実験室のような将来を皆さんに提供したいとは思いません。それは喜びの「フィクション」であって、今日の、具体的な、愛の喜びではありません。そうした場合は、この喜びのフィクションをもって皆さんを「安心させ」、騒音を立てさせないように、あまり面倒をかけさせないように、自分に問いかけたりわたしたちに質問してきたりしないように、何にも疑問を抱いたりわたしたちに疑問を提示したりしないように、皆さんを眠らせるのです。そしてその「それまでの間」に皆さんの夢は飛ぶ力を失い、引きずられるようなものになり、眠りはじめます。それは小さく悲しい「夢想化」で(2018年3月25日、枝の主日説教)、まだ自分の時間だと考えず、明日を夢見、明日働くことに巻き込まれるにはあまりに若すぎると言うだけでそうなります。そのようにして、いつまでも後伸ばしにし続けるのです。 一つ知ってますか? 青年の多くは、こういうのが好きなんです。お願いですから、そういうのを好まなくなり、対抗し、神の今を生きることを望むように青年たちを助けましょう。
この前のシノドスの実りの一つは、出会い、特に、互いに聞き合うことができるということの豊かさ=富でした。異世代間の傾聴の富は、意見交換という富であり、互いに必要とし合っていることを認識する価値という富で、すでに今日から、明日を夢見、明日を働くことに巻き込まれるなかで道筋とスペースを手配する努力をしなければなりません。けれど、別々にではなく、共に、共通のスペースを作りながらです。それは天下りのスペースでも、宝くじで当てられるスペースでもありません。皆さんも勝ち得ようと奮闘すべきスペースです。皆さんは今日、自分のスペースの取り合いをしなければなりません。なぜなら命とは今日のことだからです。誰もあなたに明日という日を約束することはできません。あなたの今日の命は、今日なのです。あなたが何かに賭けるのは、今日なのです。君のスペースは今日なのです。このことに、君は何と答えていますか。
大好きな青年の皆さん、あなたたちは、未来ではありません。わたしは「君たちは〇〇の未来だ」と言うのが好きではありません。違います。皆さんは「いま」なのです。皆さんは神の未来ではありません。青年の皆さんは神の今なのです。神が皆さんを呼び集め、自分の共同体の中で皆さんに呼びかけ、皆さんの町の中で皆さんに呼びかけ、おじいちゃんやおばあちゃんや年配の人たちを探しに行き、彼らと共に立ち、み言葉を手にし、主が皆さんのために夢描いた夢を実践に移すのです。
明日ではなく、今です。なぜならその今という時に、つまりあなたの宝のある所にあなたの心もあるからです(マタイ6章21節参照)。そして惚れ込む者こそが、皆さんの想像力を侵略するだけではなく、あらゆることに影響するのです。それが皆さんを明日立ち上がらせ、疲れた時に皆さんを促し、心を壊し、驚きと喜びと感謝で満たされるようになるものなのです。皆さんには使命があることを感じ、恋しなさい。それがすべてを決断へ導くでしょう(ペドロ・アルペ、SJ、『これ以上実用的なものは無い』参照)。なんでも手に入れることができるでしょう。けれど、大好きな青年の皆さん、愛の情熱が足りなければすべてが不足するでしょう。愛の情熱は今日です! 主がわたしたちを惚れ込ませ、わたしたちを明日まで連れて行ってくれますように。
イエスには、「それまでの間」というのはありません。心に巣を作り、心を手に入れたがるいつくしみの愛があるのみです。イエスはわたしたちの宝物になりたがります。なぜならイエスは人生における「それまでの間」でも、はかない流行でもなく、自己奉献へと招く奉献の間からです。
イエスは具体的で、今日の、身近な、ほんものの愛です。彼は、恐れや疎外、思惑や操作によって動けなくされ、動けなくする、実に多くのまなざしを前にした希望と愛徳、連帯と兄弟愛の奇跡的な魚釣りを選び、これに参加する時に生まれる祝祭的な喜びなのです。
兄弟の皆さん、主とその使命はわたしたちの人生における「それまでの間」ではありません。何かはかなく過ぎるものではありません。世界青年大会だけのことではありません。それは今日のわたしたちの、歩き続ける命です。
この数日毎日、特別な仕方でマリアの「そうなりますように」がBGMのようにささやかれ続けていました。マリアは神とその約束を実現可能な何かであると信頼しただけではなく、神を信じ、この主の今に参加するために勇気を出して「はい」と言ったのでした。
自分には一つの使命があると感じ、ほれ込み、そうしてこのことがすべてを決めました。皆さんも一つの使命があると感じ、ほれ込むように任せてください。そうすれば主がすべてを決めて下さるでしょう。
そしてナザレのシナゴーグで起こったように、主は、わたしたち、その友人や知人の間で、立ち上がり、本を手にして、わたしたちにこう言います。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4章21節)と。
大好きな青年の皆さん、その愛の具体的なものを体験したいですか?皆さんの「はい」という答えが、聖霊が教会と世界に新しい聖霊降臨をプレゼントするための入り口の扉となり続けますように。そうなりますように(かくあれかし)。
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終わりの挨拶
このミサ聖祭の終わりに、この数日わかち合うチャンスをくださり改めてこの世界青年大会を体験できるようにしてくださった神に感謝します。
特別に、パナマ大統領のフアン・カルロス・ヴァレラ・ロドリゲス氏や、他の国々の大統領の皆さんや、ほかの政治や市政の権力者の皆さんに、このミサに参加してくださったことに感謝したいと思います。
パナマ大司教のホセ・ドミンゴ・ウジョア・メンディエタ卿とこの国や近隣諸国の司教たちに、この大会をそちらの教区で歓迎してくださった心構えとすばらしい企画、みなさんが自分の共同体で実現してくださった青年たちに対するあらゆる宿泊の手配や支援に感謝します。
祈りをもってわたしたちを支えて下さったすべての人々、この国で世界青年大会のこの夢を実現させるための努力と仕事に協力してくださった皆さんに感謝します。
そして皆さん、大好きな青年の皆さん、大きな「ありがとう」を言います。皆さんの信仰と喜びが、パナマを震わせ、アメリカ大陸を震わせ、全世界を震わせました。この数日の間何度も聞いてきた今回の大会のテーマソングに、「わたしたちは様々な大陸や町から今日やってきた巡礼者です」とあったように、わたしたちは歩んでいる最中ですし、歩き続けます。信仰を生き続け、信仰を分かち合います。そして皆さんは明日ではなく、「それまでの間」ではなく、神の今だということを忘れないでください。
そして、次の世界青年大会の開催地が発表されました(ポルトガル、2022年)。この数日の間皆さんが体験してきたことを冷まさせないでください。自分の小教区や共同体、家族や友人のもとに戻り、皆さんが体験してきたことを伝え、ほかの人たちもその強さと皆さんが持っている具体的なその夢で震わせることができますように。そしてマリアと共に、皆さんの中に神が植えて下さった夢に対して「はい」と言い続けてください。
そして、お願いですから、私のために祈ることを忘れないでください。