2014年4月15日火曜日

3月28日、朝ミサ説教:わたしたちの御父の心は、生むことなく言い続ける、「帰ってこい!」と

 朗読箇所:ホセア 14章2-10節/マルコ 12章28-34節
 神は愛する「他に何もできない」。パパ・フランシスコは今朝の聖マルタの家でのミサでこのことを強調した。パパは繰り返し、主はいつもわたしたちを待ち、わたしたちをゆるし、わたしたちが彼のもとに帰ると宴会を開いてくれる「あわれみの神である」 ことを訴えた。

 わたしたちが神から離れると、神はわたしたちにノスタルジーを感じるのです。パパはその説教を、この日の第一朗読の預言者ホセアをきっかけに発展させた。主は、やさしさに満ちてわたしたちに語ります。また、「わたしたちを回心に招く」とき、たとえこの言葉が「わたしたちにとって少し強く響く」にしても、この中に、「神の愛に満ちたノスタルジー」が存在するのです。御父の子に対して「けぇってこい、もう家に帰る時間だ」と語る勧告が込められているのです。

「これがわたしたちの父の心です。神はこういう方です。疲れません、疲れないのです!何世紀も何世紀もこれをしてきたのです。そして民は何度も何度も背教を重ねてきました。そして神はいつも帰ってくるのです。なぜならわたしたちの神は待つ神だからです。地上の楽園のあの昼下がりの時から、アダムが楽園からなげきつつ、そして一つの約束を抱きつつ去って行ったあの昼下がりからです。そして神は忠実な方です。 主は自分の約束に忠実なのです。なぜなら自分自身を否むことはできないからです。主は忠実です。そのようにして、長い歴史の中で、わたしたち全員のことを待っていてくださったのです。主は、いつも、わたしたちを待つ神です」。

 続いて教皇はその考えを放蕩息子の譬えへと向けた。ルカ福音書は、父が遠くにいた息子を見る、それは彼を待っていたからだ、と語ります。父は、「毎日自分の息子が帰ってくるのを見にバルコニーに上がったわけです。待っていたのです。そして息子を見るや、走って行ったのです」。そして「首をかかえて抱きしめたのです」。息子は言おうとしていた言葉を準備していたけれど、父は語らせないのです。「抱擁をもって口をふさいだのです」。

「これこそがわたしたちの御父です。わたしたちを待つ神です。いつもです。『でも、神父さん、こんなにも罪があります。神様が喜んでいてくださるのか、疑わしいものです』。『試して御覧なさい!もしあなたが御父のやさしさを知りたいのなら、御父の下に行き、やってみなさい。その後でわたしに語りなさい』。神はわたしたちを待ちます。待つ神であると同時にゆるす神でもあります。憐みの神なのです。ゆるすのに疲れを覚えません。わたしたちの方がゆるしを求めるのに疲れてしまうのです。けれど神は疲れません。7の七十倍まで。いつもです。ゆるしに向かって、どうぞ。そして会社の観点からは、出納は芳しくないものになります。神はいつも負けてくれるのです。物事に関しての収支では負けますが、愛において勝つのです」。

 そしてこれはなぜなら、神は「いつも愛の掟をまず果たす方だからです」。「神は愛するほかに何もできないのです」。そして「イエスが、多くの病人に対して行っていた奇跡も、わたしたちが主に対して頭をもたげ、向かっていく勇気をもらうときに、わたしたちに対して毎日主が実現している大いなる奇跡のしるしでした」。そしてこういうことが起こると、神はパーティーを開くのです。「あの貧しいラザロを扉のところに見捨てていたあの金持ちの男の宴会のようではありません」。神は「それとは別のパーティーを開くのです。放蕩息子の父親のしているように」。

 「『なぜならあなたはユリのように花を咲かすでしょう』。それは約束です。『あなたに宴会を開こう』。『彼らの子孫は広がっていくだろう。その輝きはオリーブのよう、その香りはレバノンの杉のよう』。主に近づく勇気のある一人一人の人生は、男性一人一人、女性一人一人の人生は、神のパーティーの喜びを見出すでしょう。つまりこのように、この言葉がわたしたちの父、いつもわたしたちを待ち、いつもわたしたちをゆるし、わたしたちが戻るときにパーティーを開いてくれる御父について考えるのを助けてくれますように」。
(RC-RV)


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