2014年4月16日水曜日

4月8日(火)、朝ミサ説教:十字架は祭壇の飾りではなく、神の愛の神秘


朗読箇所:民数記21章4-9節/ヨハネ8章21-30節

 「十字架のないキリスト教は存在しません」。聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教でパパ・フランシスコはこう語った。教皇は「自分だけの力でわたしたちの罪から抜け出す可能性というのはありません」と下線を引き、十字架は祭壇の上に置くための飾りではなく、神の愛の神秘であると再確認した。

 民は砂漠の歩みの最中に神とモーセに対してぶつくさ文句を言っていました。けれど主が蛇を送ったときに、この民はその罪を認め、救いのしるしを求めました。パパは民数記からとられた第一朗読から霊感を受けて、罪における死について考えをめぐらせた。そしてイエスは、その日の福音において、ファリサイ派の人々に、「その罪において死なないだろう」と忠告をしていることに意識を向けさせた。

「わたしたちには自分の罪から自分の力だけで抜け出る可能性というのはありません。その可能性はないのです。ここに出てくる律法学者たちは、律法について教えているこうした人々は、このことについてはっきりとした概念を持っていませんでした。もちろん、神のゆるしを信じていましたが、自分のことを、十分に強い、すべて知っている、と感じていたのです。 そして最終的に宗教を、また神への礼拝を、価値による文化、回想による文化、学識ある人と見られるための振る舞いに関するある種の決まりの文化にしてしまい、そうです、主はゆるすことはできると考えていて、このことを知っていたけれど、これらすべてからあまりにも遠いところにいることになってしまったのです」。

 教皇はまた、主がモーセに砂漠で、蛇を作りそれを杖の上に置き、蛇にかまれた人でこれを見れば命に留まると言うように命じたことを思い返した。けれど蛇とはなんでしょう?パパは尋ねた。「蛇は、罪のしるしです」。創世記にすでにみているように、「蛇が罪を提示しながらエバを誘惑した」ときのようにです。そして神は、「罪を勝利の旗印のように掲げるよう命じるのです」。「これは、もしイエスが福音でわたしたちに語っていることがわからないならよく理解できないことです」。イエスはユダヤ人たちに、「人の子があげられる時、『わたしはある/わたしである』ということを知るでしょう」と言います。そういうわけで、砂漠において罪が掲げられたのですが、「それは救いを探し求める罪です。なぜならそこで癒されるからです」。そしてあげられるのは、人の子であり、まことの救い主、イエス・キリストであることを強調した。

「キリスト教徒の主義は哲学的な教義ではありません。生き延びるため、、よく教育されるため、平和をつくるための生活のプログラムではありません。こうしたものは結果です。キリスト教徒の主義は、一人の人格にあります。十字架において、上げられた人です。自らをへりくだらせてわたしたちを救った人です。自ら罪となられた方です。そうして、罪が裁くであげられたように、ここで、神が、わたしたちのために人となり、罪となられた神があげられたのです。そしてわたしたち罪びとはすべてそこにいたのです。この神の子の深い貶めを理解せずにはキリスト教徒の主義を理解することはできません。神の子は自らへりくだり、仕えるために、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで下僕となったのです」。

 こういうわけで使徒パウロは、「どのようなことでイエスが自らに栄光を帰すか -またわたしたちがどのようなことで自分に栄光を帰すか、とも言えるでしょう-、について語るとき、それはわたしたちの罪からなのです」。わたしたちには、「ほかに自分に栄光を帰す物事などないのです。これはわたしたちの悲惨です」。そして「神の憐みの側から、わたしたちは十字架につけられたキリストにおいて自らに栄光を帰すのです」。このような理由で、「十字架のないキリスト教は存在せず、イエス・キリストのいない十字架も存在しないのです」。神の救いの心は、「その息子にあります。自らの上にわたしたちの罪、わたしたちの傲慢、わたしたちの安定した生活、わたしたちの虚栄、わたしたちの神のようになりたいという願望を身に負ったその息子に」。このため、「十字架にかけられたキリストに自らの栄光を帰すことのできないキリスト者はキリスト教徒となるとはどういうことを意味するのかを理解しなかったことになります」。わたしたちの傷は、「わたしたちの中に罪が残すそういうものです。主の傷、人となられ、貶められ、消された神の傷をもってのみ癒されるものです」。「そしてこれこそが、十字架の神秘なのです」。

「十字架は、いつも各教会に、そこの、祭壇の上に据えなければならない飾りではありません。わたしたちを他の人々と見分けがつくようにするためのシンボルでもありません。十字架は神秘です。自らへりくだり、『無』となり、罪となる神の愛の神秘なのです。どこにあなたの罪がありますか?『わたしは知りません、ここにあまりにたくさんあります』。いいえ、あなたの罪はそこにはありません。十字架の中です。そこに探しに行きなさい。主の傷の中に。そしてあなたの罪は癒されるでしょう。あなたの傷は癒されるでしょう。あなたの罪はゆるされるでしょう。神がわたしたちに下さるゆるしは、主のもとで持っている預金をキャンセルすることではありません。神がわたしたちに下さるゆるしは、十字架に挙げられた、十字架上の我が子の傷なのです。 主がわたしたちをご自分の下に引き寄せ、わたしたちが癒しのために場を許すことができますように」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

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