2013年10月1日火曜日

9月29日(日)、説教:信仰年イベント、要理担当者(カテキスタ、教会学校のリーダー)の集いのミサ



 9月29日(日)年間第26主日
          アモス6・1a、4-7
          一テモ6・11-16
          ルカ16・19-31

1.「災いだ、シオンに安住し・・・象牙の寝台に横たわ(るお前たちは)!」(アモス6章1節、4節)飲み食いし、歌に興じ、他の人たちの問題を憂慮しないお前たちは。預言者アモスのこうした言葉は耳に痛いものです。けれど、誰もが陥りそうな危機に警鐘を鳴らしてくれています。当時の人々の面前で提示し、今のわたしたちの前でも突き付けられている、この神の伝達者が拒んでいる者は、何でしょうか?ゆったりと居座る怠惰の危険、居心地の良さの危険、生活における、また心における世俗性の危険、わたしたちの生活の安定に意識を集中させる危険です。これは福音に出てくる金持ちの体験と同じです。贅沢な服に身を包み、毎日有り余るほどのもので宴会を開く生活です。これは彼にとって大切なことでした。ではその扉のところにいて、何も食べるものがなかったあの貧しい人はどうだったのでしょう?金持ちの人は自分の問題としては捉えられていませんでした。この貧しい人とは無関係でした。物やお金、世俗的なものが生活の中心になってしまうと、わたしたちを虜にし、わたしたちを縛り、わたしたちは自分の人間としての独自のアイデンティティを失います。福音に出てくる名もない金持ちをごらんなさい。この人のことは単に「一人の金持ち」とのみ呼ばれています。物や持っている者、それが彼の面持ちであって、他にないのです。
 けれど、皆さん、自問してみましょう。なぜこんなことが生じるのでしょう?人々が、おそらくわたしたちも、わたしたちに閉じこもり、物にわたしたちの安心できる場を求め、最終的にわたしたちから表情が、わたしたちの人間としての面持ちが奪われる、などということが、どうして起こりえるのでしょうか?これは、わたしたちが神についての記憶を失った時に生じます。「シオンに安住する者は災いだ!」と預言者は言っています。神についての記憶にかけると、全てのものが低められ、全てが自分自身、自分の安定した生活に留まってしまうのです。人生も、世界も、他者も、その内実を失い、何も語らず、全てたった一つの局面に狭められます、すなわち、持つことのみに。もし神についての記憶を失うなら、わたしたちも内実を失い、わたしたちも空虚になり、福音に出てくる金持ちのように、わたしたちもその表情を失います。虚無を追い求める人は、彼自身虚無そのものになる、と別の大預言者エレミヤは言っています(「彼らは空しいものの後を追い/空しいものとなってしまった」エレミヤ2章5節)。わたしたちは神のイメージ、また似姿に作られているのであって、物や偶像のイメージや似姿につくられているわけではないのです。

2.そこで、皆さんを眺めながら、問いかけます。カテキスタ(要理担当者)とは、誰なのでしょう?要理担当者は、神に関する記憶を庇護し、培う存在です。自らの内でこれを守り、他者のうちにこれを目覚めさせることを知っている人です。何と素晴らしいことでしょう!神の記憶を実現すること。ちょうどおとめマリアが、その人生における神の驚くべき素晴らしいわざを前に、誇りや特権、富について考えず、自分自身に閉じこもらなかったように。彼女はむしろ天使のお告げを受け、神の子を宿した後、何をしたでしょうか?歩み始めます。歳をとったいとこエリザベトがいるところに行き、彼女も懐妊していたのですが、手助けに向かうのです。そして出会ったときに、その最初にしたことは、神のわざを思い出すことでした。自分の人生と、その民の歴史、わたしたちの歴史における神の忠誠を記憶したのです。「わたしの魂は主の偉大さを告げます・・・なぜならそのはしためのへりくだりを見てくださったからです・・・そのあわれみは何世代をも越えて世々に信じる者たちに届きます」(ルカ1章46節、48節、50節参照)。マリアには神についての記憶があります。このマリアの賛歌には、その個人的な歩みの歴史もあります。彼女と共に歩んだ神の歴史です。その信仰の独自の経験の歴史です。そうやってわたしたち一人一人も、全キリスト者もやって行くのです。信仰というのはまさに神のわたしたちとの歩みの歴史の記憶を含んでいるのです。神との出会いの記憶です。そこで神こそが最初に動きだし、作り、救い、わたしたちを作り変えるのです。信仰とは、心に燃え上がる神の言葉の記憶、わたしたちにいのちを与え、わたしたちを清め、わたしたちを癒し、わたしたちを励ますその救いのわざの記憶です。
 要理担当者とは、まさにこの記憶を伝達という奉仕に据えるキリスト者のことです。自分を見せびらかすためではなく、自分について話すためでもなく、神について、その愛について、その忠実さについて語るためです。神が啓示してくださったことをすべて語り、伝達すること、つまり何も切りとらず、何も加えないその全体性をもって教義について語り、これを伝達することです。
 聖パウロはその弟子であり協力者であるティモテに何よりもある一つのことを勧めています。「思い起こしなさい。イエスキリストのことを思い起こしなさい。死者の中から復活した方で、わたしが宣べ伝えている人で、そのためにわたしは苦しみを受けている、この方のことを」(2テモテ2章8節―9節)。けれど使徒がこのことを言えるのは、彼がまず、自分がまだキリスト者の迫害者だった時に自分を呼び、自分を魅了し、その恵みによって変えたキリストのことを思い出していたからです。
 要理担当者は、つまり、神の記憶を自らと共に連れ行き、その全人生において神の記憶によって導かれるようにし、他者の心の中でこの記憶を目覚めさせることができる人なのです。このことには努力が必要です。全人生を捧げなさい。要理(カトリック教会の教え)自体、それが神の記憶、歴史におけるその働きの記憶、そのみ言葉や秘跡、その教会、その愛のうちにおられるキリストにおいてわたしたちに近い存在となってくださったことの記憶でなくて何でしょうか?愛する要理担当者の皆さん、皆さんに問います。わたしたちは神の記憶でしょうか?わたしたちは本当に、心を燃え立たせる神の記憶を他者のうちに目覚めさせる夜警のように生きているでしょうか?

3.「災いだ、シオンに安住する者は」と預言者は言っています。自分自身やものに信頼する人々のように「表面的」にならず、神の記憶の男女となるために続けなければならない道は何でしょうか?第二朗読において、聖パウロは改めてティモテに向かい、要理担当者の道、つまりわたしたちの歩みにもあとを残すことのできるいくつかの指示を出します。それは正義や事前、信仰、愛徳、忍耐、大人しさを豊かにすることです(Iティモテ6章11節参照)。
 要理担当者は、もし神、また隣人との継続的で生き生きとした関係をもっているなら、もし信仰の人であり、本当に神に信頼し、神にその安全性を賭けており、もし愛徳の人、愛の人、全ての人を兄弟として見る人であり、もし「ヒポモネー」の人、忍耐、継続の人、困難や試練、失敗を前に落ち着いて、主への希望をもっていられる人であるならば、そしてもしやさしい人で、理解とあわれみを実現できる人であるならば、神の記憶の人です。
 主に、わたしたちが自分の人生において神の記憶を庇護し、培うことができ、他者の心の中にその記憶を目覚めさせることのできる男女であることができるように願い求めましょう。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿