2013年10月4日金曜日

7月に出された回勅『ルーメン・フィデイ(信仰の光)』の簡潔な要約

7月に出された回勅『ルーメン・フィデイ』の要約、二種類載せてきましたが、もう少し短くて、読みやすいものはないかと思っていたら、こんなのが出ていたので訳してみます。
http://www.vidanueva.es/2013/07/08/enciclica-lumen-fidei-las-ideas-principales/


ミゲル・アンヘル・モレーノ



 フランシスコ教皇によって署名された最初の回勅は、根本的に、個人としての信仰体験と教会における共同体としての信仰体験を扱おうとしているテキストです。ベネディクト十六世によって「実質的にはほとんどまとめられた」文書であり、フランシスコによって引き継がれた「貴重な作業」ですが、フランシスコは現教皇として署名しただけでなく、「いくつかの付記」を本文に加えています。

 《信仰年》を結ぶためという概念のもと書き始められましたが、教皇の辞任とコンクラーベの結果、最終的にこれがフランシスコによって署名されることになったわけですが、75日に新宣教推進委員会議長のリノ・フィジケッラ大司教による発表によれば、「まったくもって教皇フランシスコによる」テキストであるとされています。

 構成は、序文と、「わたしたちは愛を信じた」「もし信じないなら、理解できない」「わたしは自分が受けたことを伝えている」「神は彼らのために一つの都を準備している」と題される四つの章からなっています。回勅にはいくつか特徴的なフレーズがありますが、いくつか次に挙げてみましょう。

序文から
      信仰の光にある独特の特徴は、それが人間の全存在を照らすことができるということにあります。なぜならそれほどまでに力強い光がわたしたち自身から出ているわけがないからです。(・・・)、決定的には、神から来ていなければおかしいのです」。序文に充てられている紙面に流れる精神は、上記の引用にまとめることができるでしょう。信仰は、今の社会による闇と疑いとに結びつけられていますが、キリスト者と社会にとって照らしとなるその性質を回復しなければならない、と言っています。

第一章:「わたしたちは愛を信じた」
      信仰の光は人生の具体的な出来事とつながっています。神の恵みのありがたい思い出や、その約束の日々進められている成就と関連しているのです」。第一章に適したこのような言葉でフランシスコは、アブラハムや父祖たちの個人的な信仰、また同様にイスラエルの民の信念についての考えを展開します。そこで信仰は「呼びかけであり、約束である」と言われています。
      キリストの死は復活の光に照らして見るとき、神の愛のまったき信ぴょう性を示します。復活者であることで、キリストは信頼のおける証し人であり、信仰の対象としてふさわしい人なのです。・・・『もしキリストが復活しなかったなら、あなたたちの信仰には意味がない』と聖パウロは言っています」。このパウロのフレーズに支えられて、回勅はイエスの死と復活こそが神の愛の一番の証しであるということを取り上げます。
      信じる者は《愛》によって変えられます。その《愛》には信仰によって開かれるようになるのですが、この自らを差し出す愛に開かれるにあたり、その存在は自分自身をはるかに超えて膨らむようになります」。この信仰によって届けられる救いとその信じる者の共同体での教会生活の重要性についての回想をもって、『ルーメン・フィデイ(信仰の光)』の第一章は閉じられます。

第二章:「もし信じないなら、理解できない」
       人は知識を必要としています。真理を必要としています。なぜなら真理がなければ自らを支えることができず、前進しないからです。信仰は、真理がなければ、救うこともなく、わたしたちの歩みを確かにすることもありません」。このような回想をもって、第二章は始まります。そこでは信仰と真理の関係が扱われています。教皇のテキストによれば、この両者の関係はどうしても回復されなければならない関連性なのです。大いなる真理に対して「疑いをもった」眼差しを送るような社会の中で「まさにわたしたちは真理についての危機に直面していますから」。
       真理に基づいて初めて、愛は時の流れの中で永遠のものでありうるのです。(・・・)真の愛は人のあらゆる要素を一つにまとめ、偉大で満ち満ちたいのちへと向かう新しい光となるのです」。回勅に多々見られる宗教者以外の様々な思想家や文学者に関する言及のひとつ、ドイツの哲学者ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの、信念と恋愛を関連させ真理から分離して考える引用に応えながら、回勅は真理の持つ愛や信仰とのつながりを再評価しています。
       耳を傾けることとの一致のおかげで、見ることもイエスに従うことの一部をなし、信仰は、普段闇の中で見ることになれてしまっている目で見ている道のただ中での、眼差しの歩みとして紹介されます」。このような表現をもって、テキストは聞くことと見ることとい言うように、真理へ近づく二つのあり方の対立を越えます。それはイエスという人格において統合されるのです。イエスを「見、聞くことができる」からです。
       キリスト教信仰は、神のまったき愛の真理を告げ、この愛の力に開くごとに、人の経験の最も深い中心部分に到達します。それは愛のおかげで光のもとに来て、光のうちに留まるために愛するようにと呼びかけられています。これは信仰と理性の間での対話に基づく経験のことですが、「互いに強め合う」ものです。これはヨハネ・パウロ二世の回勅『信仰と理性』に関する言及です。
       その愛の真理というのは暴力的に押し付けられるものでも、人を抑圧するものでもありません。愛から生まれてこそ、一人一人の人格の中心である心に到達することができるものなのです。そのように、信仰は融通の効かないものではなく、他者を尊重するような強制のうちに育つものであることがはっきりしています」。

第三章:「わたしは自分が受けたことを伝えている」
       受けた言葉は応答、告白に姿を変えます。そして、このようにして、信じることへと他者を招きつつ他者のために響きます」。第三章はこのように始まります。その標題は信仰伝達について雄弁に言及しています。
       自分自身を知ることは、より大いなるものの記憶に与って初めて可能なのです。信仰においても同じことが生じます。(…)信仰は、あの記憶の唯一の主体である教会において活き活きと保たれています。教会は信仰の言語で語ることをわたしたちに教える《母》なのです」。信仰体験の共同体的役割が、この章で続く部分の中心テーマとなっています。特に秘跡に集中しています。
       もし、一方で、秘跡が信仰の秘跡であるならば、信仰には秘跡的構造があるとも言われなければなりません」とテキストは指摘しています。そこではその信仰伝達の証しとしての洗礼の秘跡が中心テーマになります。さらに読み進めていくと、「教会が伝えている記憶の宝庫に含まれている四つの要素」が指摘されています。すなわち、信仰告白、秘跡、十戒、祈り、この四つです。
       「同じ真理のうちに一つの一貫性を感じ取ることは難しいようです。このタイプの一致は思考の自由や主体の自律性に反するかのような印象を受けるからです。しかし、愛の体験が語るところでは、まさに愛において共通の展望をもつことは可能なのです」。信仰における一致、教会における一致の正当性を示す、この個所を結ぶフレーズです。

第四章:「神は彼らのために一つの都を準備している」
       信仰は道として示されているだけでなく、建設物としても示されます人が他者と共生できるような場所の準備として示されるのです」。この章はこのようにして始まります。信仰は「世界から離れることもなく、現代の人間の具体的な切望と無関係でもないのです」。
       「『近代的であること』のなかで、平等に基づいた人間同士の普遍的兄弟愛が樹立されようとしていました。しかしながら、少しずつ、わたしたちはこの兄弟愛は、最終的な基盤である、共通の《父親》について言及することなしには継続不可能であることを理解するようになりました」。回勅は、社会生活における信仰に関してこのように指摘しています。
       キリスト者は、苦しみはいつもあるだろうけれど、そこに意味を与えることができること、それを愛のわざに変えることができること、神の手の内にある信頼に満ちた献身に変えることができることを知っています。その神はわたしたちを見棄てることがありません。このようにして、これを信仰と愛における成長の時と成すのです」この肯定命題をもって、信仰が「世の苦しみを忘れるようにはわたしたちを導かない」ことの理由を説明します。神は苦しみを前にして「すべてを説明する理屈」を与えるのではなく、「そこに寄り添って一緒にいること」をもって答えるのです。
       わたしたちは、これまで強調してきた、信者が信仰告白において完全な形で指摘されていることが、幸いなるおとめマリアにおいて実現されていると言うことができます。マリアは、キリストとのその一致を通して、わたしたちが信じていることと密接につながっています」。このようなおとめマリアに関する回想をもって、キリストの「人としての本物の歴史」を確証する女性としてマリアのことを取り上げながら、この回勅は結ばれます。

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