2013年10月5日土曜日

10月3日(木)、朝ミサ説教:記憶を単なる思い出にしないようにしよう。ミサは社交イベントではない。


 「神が来て近づくとき、いつも宴会があります」。これは聖マルタの家での今朝のミサでパパ・フランシスコが強調したことである。教皇とバチカン市国でここ数日集まっていた《枢機卿顧問会》の枢機卿たちも列席していた。

 その説教において、フランシスコは救いの記憶をただの思い出にしてはならないと強調し、ミサは社交イベントではなく、 わたしたちの間におられる主の現存そのものであると断言した。

 エズラは高台から失われたと思われていた律法の書を読み上げます。感動した民は喜びで涙にむせびます。パパ・フランシスコは今日の第一朗読であるこのネヘミア書のパッセージから着想を得て、記憶のテーマをその説教の中心テーマにした。神の民は、「律法の記憶がありました、けれどそれは現実からほど遠い記憶でした」。しかしその日には、「記憶は身近なものとなり」、「このことが心に触れました」。泣いていましたが「それは喜びによるもので、痛みによるものではありませんでした」。「なぜなら救いの近さの体験があったからです」。

 「そしてこれは歴史の重大な瞬間だけに重要なのではなく、わたしたちの生活の瞬間瞬間においても重要なのです。誰もが救いの記憶をもっています。全員です。しかし、自問します。その記憶はわたしたちの近くにあるでしょうか?それともちょっと遠い所にある、少し気の散った、少し古拙の、少し美術館にしまわれているような記憶でしょうか?遠くに行くことはできます・・・記憶が身近なものでない場合、わたしたちがこの記憶の近さの体験をもたない時、これが変容のプロセスに入るという経験がなければ、記憶はただの思い出になってしまいます」。

 記憶が遠いものになる時、「思い出に姿を変えます。けれど近くになる時、喜びになります。そしてこれこそ民の喜びなのです。パパはさらに言った。これは、わたしたちのキリスト教生活の基礎です」。記憶が身近なものになる時、「二つのことをします。心を炎で燃え立たせ、喜びを与えます」と再確認した。

 「そしてこの喜びはわたしたちの力です。近い記憶の喜びです。一方、飼いならされた記憶は少し遠のき、ただの思い出となります。心を燃え立たすことはなく、喜びももたらさず、力も与えません。この記憶との出会いは救いの出来事です。これはわたしたちと共なる歴史となりわたしたちを救った神の愛との出会いです。これは救いの出会いです。そして救われることは実に美しく、宴会を催さなければならないほどなのです」。

 「神が来て近づくとき、いつでも宴会があります」。そして「何度も、わたしたちキリスト者は宴会を恐れています。この単純な、兄弟的な宴会を。これは主の近さの賜物なのです。それは主の近さの賜物なのです。これは記憶ではなく、今生きています」。教会は、「その記憶」をとどめています。「主の受難の記憶」です。わたしたちにも、パパは忠告して言った。この思い出を遠ざかり、これを思い出に変え、日常的なイベントへと姿を変えようとする動きが生じていると指摘した。

 「毎週教会に行きます。 あの人がなくなったからとか、葬儀に行こうとか・・・。そしてこの記憶は、しばしば、つまらなくなります。なぜなら近くないからです。悲しいことですが、ミサがしばしば社交イベント誰かのミサで一発で解決されるものでもありません。そしてわたしたちは、眼前におられる主の現存である教会の記憶に親しくないのです。このネヘミアの書の美しい情景を想像しましょう。エズラはイスラエルの記憶の詰まった本をもっていきます。そして民はその記憶に近づき、涙を流し、心は膨れ上がります。歓喜に満ちています。主の喜びが民の力であることを感じています。そして宴会を催します。恐れることなく、シンプルに」。

 教皇は結んで言った。「わたしたちの側にその記憶をいつも持つことのできる恵みを主に願いましょう。身近な記憶、習慣や多くのものごとに慣らされただの思い出として遠くに置かれたたものではなく 」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

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