2014年3月6日木曜日
3月5日(水)、一般謁見:四旬節の意味
2014年3月5日水曜日
2月14日、結婚を準備しているカップルのための演説
質問1:「いつまでも」ということに対する恐れ
教皇さま、一生の忠実を約束するのはあまりに難しい事業だと考えている人は、今日たくさんいます。いつまでも一緒に生きるという挑戦は美しく、魅力的ですがあまりに強制的で、ほぼ不可能だと感じている人が大勢います。このことについてわたしたちを照らしてくださるようにお願いします。
ほんものの祭りとなるような仕方ですべてを行いなさい。なぜなら婚姻は一つの祭りだからです。キリスト者の祭りであって世俗の祭りではありませんよ。
その日の喜びのより深い動機は、ヨハネ福音書がわたしたちに指摘しています。カナの結婚の奇跡を覚えていますか?あるところまできて、ワインが足りず、結婚式はだめになりそうでした。紅茶をすすって祭りが終る状況を想像してください。いや、これではだめですね。ワインがなければ祭りはありません。マリアの提案で、その時、イエスは初めて自分のことを明かし、しるしを行います。水をワイに変え、そのようにしながら、結婚式の宴会を救うのです。カナで二千年前に起こったことは、あらゆる結婚式の宴会で実際に起こります。皆さんの婚姻を満たし深く本物にするものは、その恵みを掲示し与える主の現存となります。これは「よいワイン」を差し出すその現存です。イエスこそが、心を本当に熱くする完全な喜びの秘訣そのものなのです。そのパーティーにいるのは、イエスの現存なのです。美しいパーティーになるといいですね、けれどイエスと共に。世俗の精神と共に、ではありません。だめですよ!主がそこにおられる時、感じ取ることができるものです。
そうは言っても、同時に、皆さんの婚姻が意識のはっきりしたものであること、本当に大切なものを強調することはよいことです。外側のシンボルや宴会、写真、ドレス、花とかいったものを一番心配している人もいます。そうしたものはパーティーに大切なものです。けれど、そうしたものが皆さんの喜びの本当の動機、つまり皆さんの愛に対する主の祝福を指し示すことができるかどうかにかかっています。カナでのワインのように、皆さんのパーティーの外的なシンボルが主の現存を啓示させ、皆さんと列席者の全員に皆さんの喜びの起源と動機を思い起こさせることができるように、できる限りのことをしなさい。
けれど、あなたがおっしゃったことで、ざっと再確認したいことがあります。そのまま見過ごしておきたくないからです。婚姻は日々の仕事でもあります。民芸品職人の仕事、金細工職人の仕事とでも言えましょう。というのは、夫には妻をますます女性らしくさせ、妻には夫をますます男らしくさせる務めがあるからです。男として、女として、人間性においても成長すること。そしてこのことは二人の間で行われるのです。これは、共に育つ、と呼ばれるものです。これはつかみどころのないところからくるものではありません。主はこれを祝福しますが、皆さんの両手から、皆さんの態度から、皆さんの生き方から、皆さんの互いの愛し方から来るものなのです。自分たちを育てること!いつも相手が成長できるようにできる限りのことをすること。そのために働きかけること。そのように、どうなるかわかりませんが、あなたのことを考えると、ある日あなたの街の通りを歩いていると、人々が「ごらん、あの素敵な女性を、なんて強いんだろう!…」「あぁ、この旦那さんなら、わかるよね」と言うでしょう。またあなたに「ごらん、あの人を」「あの奥さんなら、わかるよね」と言うでしょう。これです。ここにいたることです。自分たちを共に、互いに育てることです。そして子どもたちはこの、互いに、より男性らしく、より女性らしくなるようにしながら、共に成長したパパとママを持った、という遺産を受け継ぐでしょう。
教皇さま、一生の忠実を約束するのはあまりに難しい事業だと考えている人は、今日たくさんいます。いつまでも一緒に生きるという挑戦は美しく、魅力的ですがあまりに強制的で、ほぼ不可能だと感じている人が大勢います。このことについてわたしたちを照らしてくださるようにお願いします。
証しと問いに感謝します。皆さんに説明しましょう。彼らはわたしに前もって質問を送ってきたのです。よく理解できます。そうやって、わたしが考えをまとめ、もうすこししっかりした答えを考えられるように、ということですね。「いつまでも」愛し合うことは可能かどうかを問いかけることは大切なことです。この質問はわたしたちがしなければならない問いです。「いつまでも」愛し合うということは可能なのだろうか?と。今日、決定的な選択をすることに恐れを抱いている人々はたくさんいます。ある青年がその司教にこう言っていました。「わたしは司祭になりたいのですが、10年だけじゃダメでしょうか」。決定的な選択を恐れていたのです。けれどそれは一般的な恐れです。わたしたちの文化に独特のものです。全生涯のための選択をすることは、不可能に思えるのです。現代では、あらゆることがすごいスピードで変化し、何も長期間続かないのです。そしてこのメンタリティが多くの人を、「愛が続く限りわたしたちは一緒にいます」と語る結婚を準備するに至らせているのです。ではその後は?よろしく、ではまた会いましょう、と、このように婚姻が終るのです。けれど、「愛」について何を理解しているのでしょう?ただの感情や心身の状態でしょうか?確かに、もしこれであれば、その上には何か確かなものを建設することはできません。けれどそうではなく、愛が一つの関わりである場合、それはひとつの成長していく現実であり、例として、家のように建設されるとも言い得るのです。そして家は共に建てるのであって、一人でするものではありません。建設するとは、ここでは成長に役立ち助けるということを意味します。愛するカップルのみなさん、皆さんは共に育ちこの家を建て、いつまでも一緒に生きる準備をしています。皆さんは押しては弾く感情の砂にこの基礎を据えようとは思っていません。そうではなく、本物の愛、神から来る愛という岩に据えようと思っています。家族はこの、愛情と援助、希望と支えの空間であるような家が建てられるように育つことを望む愛の計画から生まれます。神の愛はしっかりしていていつまでも続くので、家庭を建設する愛も、しっかりとしていていつまでも続くものであってほしいと思うのです。お願いです。「その場限りの文化」に負かされてはならないのです。この今日わたしたち全員に押し寄せている、このその場限りの文化。これは機能しません!というわけですが、「いつまでも」に関するこの怖れはどうすれば癒されるのでしょう?これは日を追うごとに、主イエスに、日々の霊的な歩みに姿を変えていく生き方のうちに委ねながら癒されていくものです。それは一歩一歩からできています。小さな一歩一歩、信仰において成熟した男性、女性になっていく約束によって建てられた共通の成長の一歩一歩なのです。なぜなら、愛するカップルのみなさん、「いつまでも」というのはただの継続期間の問題ではないのです。婚姻は続くかどうかだけで実現されるのではなく、その質も重要なのです。いつまでも一緒にいて愛することを知るというのはキリスト者負債の挑戦です。わたしの脳裏に浮かんできているのはパンの増殖の奇跡です。皆さんのためにも主は皆さんの愛を増殖させ、日々のできたてでよいその愛を差し出すことができるのです。その愛の無限の予約があるのです!イエスは皆さんの一致をもとにした愛を与え、日々これを新たにし、新たな力を与えます。そしてこれを、家族が子どもたちと一緒に育つ時に、より大いなる力で行うのです。この歩みにおいて、いつも、祈りが大切ですし必要です。彼が彼女のために、彼女が彼のために、そして二人で一緒に。皆さんの愛を増殖させてもらえるようにイエスに願いなさい。主の祈りでわたしたちはこう言います。「主よ、わたしたちに日ごとのパンを、今日下さい」と。夫婦はそのように祈ることを学ぶことができます。「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」と。なぜなら日々の夫婦の愛がパンだからです。魂の本物のパン(糧)、前進し続けるためにみなさんを支えるパンだからです。そして祈りです。これを暗唱して言えるか見るために練習してみましょうか?「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」。さぁみんな一緒に。「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」。もう一度!「主よ、わたしたちの日ごとの愛を今日お与えください」。これはカップルと夫婦の祈りです。わたしたちに愛し合うこと、好き合うことを教えてください!イエスに委ねれば委ねるほど、皆さんの愛は「いつまでも」続くもの、刷新できるものになり、あらゆる困難に打ち勝つでしょう。皆さんの問いに答えて言おうと思っていたのはこれです。ありがとう!
質問2: 一緒に生活すること: 夫婦生活の《スタイル》
教皇さま、毎日一緒に生活することは美しく、喜びをもたらし、支えます。けれどそれは直面すべき挑戦です。わたしたちは愛し合うことを学ばなければならないと信じています。カップルの生活の《スタイル》があります。わたしたちが学びたいと望んでいる日々の霊性があります。教皇さま、このことでわたしたちを手伝ってくださいませんか?
一緒に生きるということは、アートです。忍耐強く、美しく、魅力的な歩みです。たがいの愛をゲットしたときに終るものではありません。それよりも、まさにその時に始まるものなのです。この日々の歩みにはルールがあります。それは次のあなたがことばにしてくれた三つのことばに要約できます。それはすでにわたしが多くの家族に何度も繰り返し言ってきたことです。そして皆さんはもう覚えて互いに使うことができるものでしょう。「失礼」、つまり、「いいですか」と、あなたがおっしゃった「ありがとう」と「ごめん」です。
「いい?失礼」。これは他者のいのちに敬意と注意を払って入っていくことのできる礼儀正しい頼みです。これしてもいいかな?こういうことをするのは好き?これを始めようと思うけど、どう?子どもたちをこう育てるのはどう?今夜外に出ない?…と質問することを学ぶべきです。結局、許可を得るというのは、他の人々のいのちに礼儀正しく入ることができるということを意味するのです。けれどよくこのことを聞きなさい。他の人々のいのちに礼儀正しく入っていくことができる、ですよ。簡単なことではありません。これは簡単ではないのです。しばしば、その代わりに、すこし山登りの靴のように、重々しく鬱陶しい仕方を用いてしまいます。本物の愛は固さと強引さで押し付けられることはありません。聖フランシスコの『小さい花』の中でこのような表現にまみえます。「愛する兄弟、知っていておくれ。礼節は神に属するものだということを。礼節は愛徳の姉妹。憎しみを消し、愛を育むもの」(37章)。そうです、礼儀正しさは愛を保つのです。そして今日、しばしば暴力的で傲慢なわたしたちの家庭やわたしたちの世界には、よりたくさんの礼儀正しさが必要です。そしてこれは家で始めることができるものなのです。
「ありがとう」。この言葉を口にするのは簡単なようですが、そう簡単でもないことを知っています。けれど重要です!子どもたちには教えますが、自分ではその後で忘れてしまいます。 感謝は大切な感情です。ルカ福音書を覚えていますか?あぁ、その前に。ある老婦人が、かつて、ブエノス・アイレスでわたしにこう言いました。「感謝は高貴な土に育つ花です」と。この花が育つために魂の貴さが必要なのです。ルカ福音書を覚えていますか?イエスは十人のハンセン氏病者を癒し、たった一人だけがイエスに感謝を述べるために戻って来ます。そして主は言います。他の九人は?どこにいるんだ?これはわたしたちにも当てはまります。感謝をすることができるでしょうか?皆さんの関わりにおいて、夫婦生活の朝を迎えるにあたり、相手が神さまからの賜物であることを活き活きと認識していることが大切です。そして神からの賜物には、ありがとう!というのです。いつも感謝がなされます。そしてこの内なる態度をもって互いにありがとうと言い合いましょう。一人ひとりに。強要のある人であることを見せるために知らない人に使われる丁寧な言葉ではありません。夫婦生活においてよく、共に前進し続けるために、互いにありがとうと言い合う必要があるのです。
三つ目、「ごめん」。生きているとたくさんの過ちや間違いを犯します。すべて話しましょう。けれどおそらくここには一度も過ちを犯したことのない人もいるかもしれません。一度もミスを犯したことのない人、そのあたりにいたら、手を上げてください。誰もが失敗するものです。誰もがです!おそらく、何もミスのない日というのはないでしょう。聖書は一番の義人も一日に七回罪を犯すと言っています。そのように、わたしたちはミスします…。ここに、この単純なことば、「ごめん」を使う必要性があるのです。一般的に、わたしたちの一人ひとりは、他者をとがめ自分を正当化する傾向にあります。これはわたしたちの父祖アブラハムに始まりました。神がアダムに、「アダム、お前はあの実を食べたのか?」と質問したとき、「わたしですか?いいえ!彼女がわたしにくれたんです」と答えます。「すみません」「ごめんなさい」と言わないために他者をとがめること。これは古い話しです。これは多くの惨劇の源にある本能なのです。自分のミスを認め、赦しを願うことを学びましょう。「今日声を荒げたならごめん」、「あいさつしないで通り過ぎたんだったらごめん」、「待たせたなら、ごめん」、もし今週口を利かなかったなら」、「ほとんど人の話を聞かずにしゃべりすぎて」、「もし忘れたことがあったらごめん」「ごめん、怒っていて、八つ当たりしちゃった」。日々たくさん「ごめん」を言うことができます。このようにしてもキリスト者の家族は育ちます。完璧な家族は存在せず、完璧な旦那もいないし、あるいは完璧な妻も存在しないことをだれもが知っています。完璧なしゅうとめについては言わないようにしましょう(笑)…。わたしたち、罪人がいるのみです。イエスは、わたしたちのことをよく知っており、わたしたちに秘訣を教えてくれます。ゆるしを乞わずに、わたしたちの家、わたしたちの家族に平和が戻らずに一日が終ることが決してないようにすることです。夫婦間でのケンカはお約束です。なぜならいつも何かあって、ケンカをしてしまったのです。おそらく怒ったことがあるでしょう。サラが飛んだかもしれません。けれどお願いですからこのことを覚えていなさい。平和を産みださずに一日を終えることが決してないように。決して、決して、決して!これが秘訣です。愛を保ち平和を成すための秘訣なのです。美しい演説をする必要はありません。しばしばこんな仕草が、そうして平和を作ります。決して終ることのない…なぜならもしあなたが平和づくりをせずに一日を終わらせるなら、内側にあるものは、翌日には冷め、固くなり、平和づくりはより難しくなります。もし互いに赦しを求め合い、互いに赦し合うことを学ぶなら、婚姻は続き、前進するでしょう。金婚を祝う老夫婦たちがここ、聖マルタの家に謁見やミサに訪れる時、彼らにわたしは尋ねます。「誰が誰に耐えたんですか?」これは美しいことです!誰もが互いに見つめ、わたしを見、こう言うのです「二人共です!」そしてこれは美しいものです。これは美しい証しです。
質問3:婚姻の儀のスタイル
教皇さま、ここ数カ月、わたしたちの結婚式のためにたくさん準備をしています。わたしたちの結婚式をよく祝うために何か助言をいただけますか?「ありがとう」。この言葉を口にするのは簡単なようですが、そう簡単でもないことを知っています。けれど重要です!子どもたちには教えますが、自分ではその後で忘れてしまいます。 感謝は大切な感情です。ルカ福音書を覚えていますか?あぁ、その前に。ある老婦人が、かつて、ブエノス・アイレスでわたしにこう言いました。「感謝は高貴な土に育つ花です」と。この花が育つために魂の貴さが必要なのです。ルカ福音書を覚えていますか?イエスは十人のハンセン氏病者を癒し、たった一人だけがイエスに感謝を述べるために戻って来ます。そして主は言います。他の九人は?どこにいるんだ?これはわたしたちにも当てはまります。感謝をすることができるでしょうか?皆さんの関わりにおいて、夫婦生活の朝を迎えるにあたり、相手が神さまからの賜物であることを活き活きと認識していることが大切です。そして神からの賜物には、ありがとう!というのです。いつも感謝がなされます。そしてこの内なる態度をもって互いにありがとうと言い合いましょう。一人ひとりに。強要のある人であることを見せるために知らない人に使われる丁寧な言葉ではありません。夫婦生活においてよく、共に前進し続けるために、互いにありがとうと言い合う必要があるのです。
三つ目、「ごめん」。生きているとたくさんの過ちや間違いを犯します。すべて話しましょう。けれどおそらくここには一度も過ちを犯したことのない人もいるかもしれません。一度もミスを犯したことのない人、そのあたりにいたら、手を上げてください。誰もが失敗するものです。誰もがです!おそらく、何もミスのない日というのはないでしょう。聖書は一番の義人も一日に七回罪を犯すと言っています。そのように、わたしたちはミスします…。ここに、この単純なことば、「ごめん」を使う必要性があるのです。一般的に、わたしたちの一人ひとりは、他者をとがめ自分を正当化する傾向にあります。これはわたしたちの父祖アブラハムに始まりました。神がアダムに、「アダム、お前はあの実を食べたのか?」と質問したとき、「わたしですか?いいえ!彼女がわたしにくれたんです」と答えます。「すみません」「ごめんなさい」と言わないために他者をとがめること。これは古い話しです。これは多くの惨劇の源にある本能なのです。自分のミスを認め、赦しを願うことを学びましょう。「今日声を荒げたならごめん」、「あいさつしないで通り過ぎたんだったらごめん」、「待たせたなら、ごめん」、もし今週口を利かなかったなら」、「ほとんど人の話を聞かずにしゃべりすぎて」、「もし忘れたことがあったらごめん」「ごめん、怒っていて、八つ当たりしちゃった」。日々たくさん「ごめん」を言うことができます。このようにしてもキリスト者の家族は育ちます。完璧な家族は存在せず、完璧な旦那もいないし、あるいは完璧な妻も存在しないことをだれもが知っています。完璧なしゅうとめについては言わないようにしましょう(笑)…。わたしたち、罪人がいるのみです。イエスは、わたしたちのことをよく知っており、わたしたちに秘訣を教えてくれます。ゆるしを乞わずに、わたしたちの家、わたしたちの家族に平和が戻らずに一日が終ることが決してないようにすることです。夫婦間でのケンカはお約束です。なぜならいつも何かあって、ケンカをしてしまったのです。おそらく怒ったことがあるでしょう。サラが飛んだかもしれません。けれどお願いですからこのことを覚えていなさい。平和を産みださずに一日を終えることが決してないように。決して、決して、決して!これが秘訣です。愛を保ち平和を成すための秘訣なのです。美しい演説をする必要はありません。しばしばこんな仕草が、そうして平和を作ります。決して終ることのない…なぜならもしあなたが平和づくりをせずに一日を終わらせるなら、内側にあるものは、翌日には冷め、固くなり、平和づくりはより難しくなります。もし互いに赦しを求め合い、互いに赦し合うことを学ぶなら、婚姻は続き、前進するでしょう。金婚を祝う老夫婦たちがここ、聖マルタの家に謁見やミサに訪れる時、彼らにわたしは尋ねます。「誰が誰に耐えたんですか?」これは美しいことです!誰もが互いに見つめ、わたしを見、こう言うのです「二人共です!」そしてこれは美しいものです。これは美しい証しです。
質問3:婚姻の儀のスタイル
ほんものの祭りとなるような仕方ですべてを行いなさい。なぜなら婚姻は一つの祭りだからです。キリスト者の祭りであって世俗の祭りではありませんよ。
その日の喜びのより深い動機は、ヨハネ福音書がわたしたちに指摘しています。カナの結婚の奇跡を覚えていますか?あるところまできて、ワインが足りず、結婚式はだめになりそうでした。紅茶をすすって祭りが終る状況を想像してください。いや、これではだめですね。ワインがなければ祭りはありません。マリアの提案で、その時、イエスは初めて自分のことを明かし、しるしを行います。水をワイに変え、そのようにしながら、結婚式の宴会を救うのです。カナで二千年前に起こったことは、あらゆる結婚式の宴会で実際に起こります。皆さんの婚姻を満たし深く本物にするものは、その恵みを掲示し与える主の現存となります。これは「よいワイン」を差し出すその現存です。イエスこそが、心を本当に熱くする完全な喜びの秘訣そのものなのです。そのパーティーにいるのは、イエスの現存なのです。美しいパーティーになるといいですね、けれどイエスと共に。世俗の精神と共に、ではありません。だめですよ!主がそこにおられる時、感じ取ることができるものです。
そうは言っても、同時に、皆さんの婚姻が意識のはっきりしたものであること、本当に大切なものを強調することはよいことです。外側のシンボルや宴会、写真、ドレス、花とかいったものを一番心配している人もいます。そうしたものはパーティーに大切なものです。けれど、そうしたものが皆さんの喜びの本当の動機、つまり皆さんの愛に対する主の祝福を指し示すことができるかどうかにかかっています。カナでのワインのように、皆さんのパーティーの外的なシンボルが主の現存を啓示させ、皆さんと列席者の全員に皆さんの喜びの起源と動機を思い起こさせることができるように、できる限りのことをしなさい。
けれど、あなたがおっしゃったことで、ざっと再確認したいことがあります。そのまま見過ごしておきたくないからです。婚姻は日々の仕事でもあります。民芸品職人の仕事、金細工職人の仕事とでも言えましょう。というのは、夫には妻をますます女性らしくさせ、妻には夫をますます男らしくさせる務めがあるからです。男として、女として、人間性においても成長すること。そしてこのことは二人の間で行われるのです。これは、共に育つ、と呼ばれるものです。これはつかみどころのないところからくるものではありません。主はこれを祝福しますが、皆さんの両手から、皆さんの態度から、皆さんの生き方から、皆さんの互いの愛し方から来るものなのです。自分たちを育てること!いつも相手が成長できるようにできる限りのことをすること。そのために働きかけること。そのように、どうなるかわかりませんが、あなたのことを考えると、ある日あなたの街の通りを歩いていると、人々が「ごらん、あの素敵な女性を、なんて強いんだろう!…」「あぁ、この旦那さんなら、わかるよね」と言うでしょう。またあなたに「ごらん、あの人を」「あの奥さんなら、わかるよね」と言うでしょう。これです。ここにいたることです。自分たちを共に、互いに育てることです。そして子どもたちはこの、互いに、より男性らしく、より女性らしくなるようにしながら、共に成長したパパとママを持った、という遺産を受け継ぐでしょう。
3月3日(月)、スペイン司教評議会への演説
今、皆さんは多くの洗礼を受けた人々の無関心という厳しい経験に苦しんでおり、プライベートな生活で神を脇にやり、公的な環境で神を除外し、世俗的な文化を目の前にしなければならない時にいますが、皆さんの歴史を忘れないことはよいことです。そこから神の恵みは決して消えることなく、指令が寛大に今の現実において働き続けていることを学ぶのです。いつも、わたしたちの司牧的配慮に任されている人々の心に多く種を蒔く方に信頼しましょう(使徒的勧告『福音の喜び』68参照)。
司教たちには福音の勇気ある本物の宣言をもってこの種に芽を出させ、模範と教育、身近さをもってその成長を丁寧に世話し、「主のブドウ園」、つまり誰も除外されたままにはならない園の総体においてこれを調和する務めが任されています。ですから、愛する兄弟のみなさん、努力の出し惜しみをせず、すべての人の心に届く福音に新しい道を開き、すでにその内側に救っているもの、つまり友であり兄弟としてのキリストを見出すことができるようにしてください。
「仕えられるためではなく仕えるために来られ」(マルコ10章45節)、神の時を謙虚に尊重でき、忍耐づよく、出会いに行くための最初の一歩を踏み出すのに恐れることなく一人ひとりの成熟の過程を尊重できる主の足跡を追っていくならば、この道を見出すのは難しいことではないでしょう。主はわたしたちに、心と心を通わせて温もりとあわれみをもってすべての人に耳を傾け、本当に一つにし互いの建設に役立つことを探求することをわたしたちに教えます。
この探求において、司教が孤独を感じたり、孤独な状況を作ったりしないことが大切です。自分に任された群れにも神の事柄に対する嗅覚があることを意識することです。特に、信者たちやその日々の必要性や気づきをもった密接な接触によって、直接の協力者たちである司祭たち。霊的に豊かな経験と様々な分野における宣教的使徒的献身による奉献生活者たち。そしてより様々な生活状況から、そしてそれぞれの力量に応じて教会の証しと使命を前進させる信徒たちです(第二バチカン公会議エキュメニズムに関する憲章『世の光』33項)。
また、信仰の仲介がますます疎遠になりその伝達に困難が絶えないような現実の今の時というのは、皆さんの教会に、離れてしまった人々を呼び、信仰を、特に子どもたちにおいて強めるための、ほんものの継続的なを据えることが強く求められています。そのために、キリスト教の生活を始めるプロセスに特に注意を払うことを忘れないで下さい。信仰はただの文化遺産ではなく、イエスとの個人的な出会いとわたしたちに提供される新しいいのちの自由で歓喜に満ちた受容から生まれる賜物、プレゼントなのです。このことはたゆまぬ宣言と継続的な鼓舞を求めます。そうして信者が洗礼において受けた神の子であるという条件をもって一貫性を持つようになるためです。
誠実な信仰を目覚めさせ、再燃させることは、結婚の準備と家族への同伴の準備を助けます。家庭の召し出しは愛における共生の生まれつきの場所であり、社会の起源的な細胞であり、信仰が据えられ体験されるいのちと家庭教会の伝達者なのです。福音化された家族は福音化の価値ある代表者です。特に神がその中で働かれた素晴らしいことを輝かせながら。しかも、その寛大さの環境という本質によって、司祭職あるいは奉献生活における主への追従の召し出しの誕生を推進することでしょう。
昨年、皆さんは『21世紀のための司祭召命』という文書を交付し、そのように召命司牧における皆さんの地方教会の関心を指摘しました。これは司教がまさに優先事項としてその心に抱き、祈りにこれを導入し、候補者の選択において強調し、よい指導者たちとふさわしい教授たちのチームを準備しなければならない局面です。
最後に、貧しい人たちへの愛と奉仕が、イエスが持ってきた神の国のしるしであることを強調したいと思います(使徒的勧告『福音の喜び』48項)。この近年、まさに皆さんのカリタスは、もちろん他の教会の有益な活動もそうですが、信者からも信者でない人からもよく認められてきました。とても喜ばしいことです。そしてわたしは主に、これが愛徳の源である、「よいことを行い、抑圧されたあらゆる人々を癒して過ごした」キリストに、そしてまた母であり自分の最も不運な子どもたちのことも決して忘れることのできない教会に近づく動機となるようにと求めます。そこで、《よきサマリア人のプログラム、イエスのプログラム》(ベネディクト十六世回勅『神は愛』31b)の奉仕にその才能と手の業を差し出す人々に敬意を示し、近さを示すようにと皆さんを招きます。
愛する兄弟のみなさん、ローマ司教との一致の絆を示すためにVisita ad limina(「敷居での訪問」、司教たちに義務付けられている教皇との会見)で皆さんは集まっているわけですが、神の忠実で聖なる民への皆さんの奉仕に心から感謝したいと思います。希望をもって前進し続けてください。信者やそうでない人々、忘れ去られている人々にも、兄弟としてまた牧者として、皆さんの地方教会の霊的宣教的刷新の先頭に立ってください。そのために、実践のよりふさわしい方法の探求における相互の相談に乗る援助として司教協議会のふところでの気さくで兄弟愛に満ちた協力は大きな助けとなるでしょう。
パパの特別なあいさつを、スペインの愛する子らに運んでくださるように、お願いですがら頼みます。教皇は皆さんを至聖なるおとめマリアの母としての日後に委ね、彼のために祈ってくれるように願い、皆さんに祝福を差し上げます。
バチカン、2014年3月3日
3月4日(火)、朝ミサ説教:キリスト者の生活は、単にイエスに従うことです!
「十字架というのはいつもキリスト者の歩みのうちにあります」。パパ・フランシスコは火曜日の聖マルタの家での朝ミサで語った。パパはキリスト者の迫害にその説教の中心を置き、現代、教会の初期よりも多くの殉教者がいることに注意を促した。そういうわけで、キリスト者の生活は「商業的な利」ではなく、「単にイエスに従うこと」であるとはっきりとさせた。
イエスが富の危険について語ったばかりのところで、ペトロがイエスに従うためにすべてを捨ててきた弟子たちは何をもらえるのか尋ねる。教皇は今日の福音で語られているこの対話から、イエスは「寛大である」ことを強調しながらその説教を発展させた。実際、主は、「家族を残し、家を残し、農地を残してきた人は、今日から、この世で、100倍のものを受けるだろう、とあなたたちに約束するよ」と答えます。おそらく、ペトロは「イエスの後ろをついて行くこと」は「いい取引」だと考えていたかもしれません。なぜなら100倍のものを得させてくださるというのですから。けれどイエスはこうして得ることと共に迫害もあるだろうと付け加えます。
「これはまるで『もし、あなたたちがすべてを捨ててきたなら、ここで、地上で、たくさんのものを受けるでしょう、でも迫害と一緒に!』と言っているかのようです。ちょうど迫害という油で混ぜられたサラダのようです。いつもです!これがキリスト者の得るもので、これがイエスの後ろをついていこうとする人の歩む道なのです。なぜならそれがイエス自身の歩んだ道だからです。イエスは迫害されました!これはへりくだりの道です。パウロがフィリピン人に語っているその道です。『彼はへりくだった。人となった。死にいたるまでへりくだった。十字架の死にいたるまで』。これこそがまさにキリスト者の色合いなのです」。
「真福八端でも、イエスは『わたしのせいで悪口を投げかけられ迫害される人は幸いである』と言っています。迫害は真福の一部なのです」。弟子たちは、「聖霊の到来後すぐに」、宣言をし始め、そして迫害がはじまりました。「ペトロは牢屋に投げ込まれました」。ステファノは殺され、その後、「今日にいたるまで実に多くの弟子たちが殺されています」。「十字架は、いつもキリスト者の歩みにつきものなのです!」 「わたしたちは、教会の中で、キリスト者の共同体の中で多くの兄弟、多くの姉妹、多くの母、多くの父を持つことになります」が、「迫害も体験するのです」。
「なぜなら世はキリストの神性に耐えられたないからです。福音の宣言に耐えられないのです。真福八端に耐えられないのです。そうして、迫害が生まれます。ことばによって、中傷によって、最初の数世紀にキリスト者について言われていたようなことによって、名誉棄損によって、刑務所によって…。わたしたちは簡単に忘れてしまいます。60年前のナチスの収容所でのキリスト者たちのこと、共産圏でのことを考えましょう。多いです!キリスト者であるというために!今日も…『でも今日は、文化が発展していて、こうしたことはないですよ』というかもしれません。あります!そして皆さんに言っておきますが、現代の方が、教会の初期よりも多くの殉教者を産みだしているのです」。
本当に多くの兄弟姉妹が「イエスの証しをしています。イエスの証しを差し出して迫害されているのです」。苦しそうにしながら教皇は言った。聖書を持つことすらできないキリスト者たちがいるのです。
「彼らは聖書をもっているということで罰せられています。十字のしるしを切ることができません。これがイエスの道です。けれどそれは喜びの道です。なぜなら主はわたしたちが耐えられない試みにはわたしたちを決して置かないからです。キリスト者の生活は商売の利得のようなものではありません。競争をすることではありません。それは単にイエスに従うこと、これに尽きるのです!イエスに従う時、このことが起こります。わたしたちのうちにイエスの証しをする勇気を持つ望みがあるか考えてみましょう。また、今日、教です!迫害されているので一緒に祈ることのできない多くの兄弟姉妹のことを考えましょう。このことはわたしたちのためになります。迫害されているために福音書も聖書も持つことのできない兄弟姉妹のことを」。
(RC-RV)
3月3日(月)、朝ミサ説教:召し出しはあるのです。これが育つように祈らなければならないのです。
永遠のいのちを相続するために何をしなければならないかを尋ねるためにイエスの前にひざまずく金持ちの男性についての福音が、パパの説教の中心であった。この人は「イエスのみことばを聞く気に満ちていました」。「この人はいい人」だったのです。「なぜなら若いころから十戒を守ってきたのですから。善い人」であるがために「そのせいで、彼にとっては、それだけでは十分ではありませんでした。もっと求めたのです。聖霊が彼を押していたのです」。イエスは愛を込めて彼をm地埋め、提案をします。「すべてのものを売り、わたしと一緒に来て福音を告げ知らせなさい」と。けれど彼は、こうしたことばを聞くと、「悲しくなって、残念がりました。なぜなら財産をたくさんもっていたからです」。
「そのムズムズした心は、まさにイエスに近づき従うようにと聖霊が押していたからなのです。心がいっぱいいっぱいで、彼はこれを空っぽにする勇気がなかったのです。そして選択をしました。金銭を選んだのです。その心は金銭で一杯でした…。けれど泥棒や囚人ではありませんでした。いいえ、いいえ、違います。いい人だったのです。一度も盗みを働いたことはありませんでした。一度も!詐欺をしたことも一度もありませんでした。誠実なお金だったのです。けれどその心はそこに捉われていたのです。金銭に直結していて、選択の自由がなかったのです。金銭が彼を選んだのです」。
「実に多くの青年たちが、その心にこのイエスに近づく『呼びかけ』を感じています。そして熱心なのです」。主の前に「ひざまずきイエス・キリストへの自分の信仰を公に言い表すのを恥ずかしがりません」。そして「イエスに従いたいと望んでいます。けれど、心が他のことで一杯になり、これを空にする勇気がない時、後戻りし、あの喜びが悲しみに代わってしまうのです」。今日もたくさんの青年たちが召し出しをもっているのですが、しばしば「彼らをとどめる」何かがあるのです。
「わたしたちは、こうした青年たちが心を空にすることができるように祈らなければなりません。他の関心、他の愛の形から空にして、心がもういちど自由になるように、と。これが召し出しのための祈りです。
『主よ、わたしたちに送ってください。
わたしたちに修道女たちを送ってください。
わたしたちに司祭たちを送ってください。
彼らを偶像から守ってください。
虚栄の偶像から、傲慢の偶像から、
権力の偶像から、金銭の偶像から彼らを守ってください』。
そうしてわたしたちの祈りは、彼らがイエスの近くでついて行けるようにその心を準備するためのものとなるのです」。
この福音の男性は、「実にいい人で、そのあと、本当に不幸になりました」。最近の多くの青年たちも似ています。だから神に密度の濃い祈りを差し上げなければならないのです。
「祈願。
『主よ、この青年たちを助けてください。
彼らが自由でありますように。
何の奴隷にもなりませんように。
あなただけに向けられた心を持ちますように』、
そしてこのようにして
主の呼びかけが実りをもたらしますように。
これが召し出しのための祈りです。たくさん祈らなければなりません。祈ること。けれど、いつも注意を払っていることです。召し出しは一つならず存在します。これが育つように支えなければなりません。主が彼らの心に入り、イエスにその近くで従うすべての人が持っている、えも言われぬ栄光に満ちたこの喜びを彼らに与えてくださるように助けなければならないのです」。
(RC-RV)
2月28日(金)、聖座ラテンアメリカ委員会に渡された教皇のメッセージ
愛する兄弟のみなさん、
今朝皆さんを迎えることができてうれしさいっぱいです。全員を代表して、そのはたらきを鼓舞する働きと提案の路線を紹介しながらマルク・ウーヴェレット枢機卿がしてくださった挨拶に感謝します。
今年、リオ・デ・ジャネイロでのワールドユースデーの足跡をたどりながら、皆さんは「教育面の非常事態」の状況にいる青年たち、また信仰伝統の根本的な問いを立てる人々のための、ラテン・アメリカとカリブの何百万人もの青年たちについてその考えをめぐらそうとして来られました。
教会は青年たちに近づくことにおいてイエスを模倣しようと望んでいます。青年たちに、イエスがわたしたちに下さった模範、献身と奉仕、無償の愛、正義と真理のための戦いという模範に従うことは苦労のし甲斐があるということを、教会は繰り返し語ろうと強く望んでいます。聖なる母なる教会は、青年たちの一番の教師はイエス・キリストであるということを確信しています。教会は青年たち全員のうちにイエスと同じ感情を伝え、そうしてイエスが生きたように生きることは素晴らしいことであるということを示し、利己主義を葬り去り、善意の美しさによって引き寄せられるようすることに関わらせたいと望んでいます。イエスのことを深く知る人は、ソファーに座りこんでいません。その生き方に引っ掛かり、犠牲を惜しまずその信仰の熱心な証しをしながら、その福音の弟子宣教師になるに至るのです。
いつもイエスと若い金持ちの青年との出会い(ルカ18章18-23節参照)はわたしに印象的に迫って来ます。これは主の教育法を生放送のように提示する美しいモデルだと思います。この挿話から三つの局面に留まります。キリストがどのようにその青年を迎え、どのように耳を傾け、どのように彼に自分に従うように招くか、です。
1.迎えること:これはイエスの最初の仕草ですが、わたしたちのものでもあります。あらゆる教えや使徒的使命に先立つものです。キリストはあの青年の前と共に留まり、彼を情愛に満ちたまなざし、愛情たっぷりの眼差しで見つめます。これは無条件の愛徳をもって抱きしめる行為です。主は一人ひとりの状況に身を置きます。自分を拒む人の状況にまで身を置くのです。同じ小銭で仕返しをすることはありません。青年たちのあらゆる生活環境において、青年たちの側にいます。学校や、家庭、仕事場で…。物質的なことだけではなく、その必要性や夢にも注意を払います。多くの青年たちは大変な問題を体験してきています。学校での失敗や失職、孤独、不和にある家庭での苦しさについてどうして考えずにいられましょう。困難な時です。彼らにフラストレーションや保護の欠如を体験させてしまう時です。青年たちは麻薬や愛のないセックス、暴力といった、傷を受けざるを得ない状況にさらされます。わたしたちには、青年たちを見捨てないこと、道のわきに置き去りにしないことが求められています。青年たちは愛情に囲まれ理解されながら、自分の尊厳においてその価値を評価されているとたくさん感じる必要性があるのです。
2.その後で、イエスはあの青年と気さくで心のこもった対話の席を持ちます。その心に抱くむずむずした感じに耳を傾け、聖書に照らしてこれをはっきりしたものにします。イエスは、はなから、悪いと決めつけることなく、偏見を持たず、いつものトピックに陥ることもありません。同様に、青年たちには教会で、アットホームに感じてもらわなければなりません。ただ青年たちに対して扉を開くだけではなく、教会が出かけていって青年たちを探し、その訴えに共感し、青年たちが訊いてもらっていると感じられるためのスペースを提供しなければなりません。教会は母です。無関心でい続けるわけにはいきません。その心配事を知り、神の心に青年たちを導かなければならないのです。
3.そして、最後に、イエスはあの青年を自分に従うようにと招きます。すべてを売り払いなさい…そして来て、わたしに従いなさい(ルカ18章22節参照)。こうしたことばはその実際性を失っていません。青年たちはわたしたちからこうしたことばを聞かなければならないのです。キリストは小説の登場人物ではなく、青年たちが生きていて抱いている抗いがたいその望み、約束の望み、献身の望みを分かち合いたいと望む生きた人である、ということを彼らが耳にしますように。もしわたしたちが青年たちに、単に人間的な慰めを与えるだけで満足するならば、わたしたちは彼らをだますことになります。わたしたちが抱いている一番いいもの、つまりイエス・キリスト、その福音を青年たちに提供し、これをもって一貫性と高貴さ、展望の高さをもって人生に立ち向かわせる新しい地平を提供することが大切です。青年たちは世の悪を見、黙っていません。指を傷口に差し込み、より良い世界を求めます。代用品を認めません。自分の今、ここでの主人公であることを求め、嘘や汚職、連帯のなさといったものに場を与えない未来の建設者となりたいのです。ラテン・アメリカの教会は、その青年期の宝を無駄にすることはできません。青年たちは社会の成長のための可能性に満ちているのです。青年たちは愛において和解した兄弟による一つの大きな家族を造り出す大きな望みをもっているのです。この歩みにおいて、イエスはわたしたちの周りにいる青年たちとの出会いに出向き、彼らを自分の側に呼び、その力、つまりみことばをプレゼントします。そのみことばのうちに、自分たちにつきつけられる挑戦に立ち向かうインスピレーションを見出すのです。キリストの友達になる必要があります。そうして「信仰において街をぶらつく人」になり、どの街角にも、どの公園にも、地上のどの隅っこにもキリストを連れていかなければならないのです(使徒的勧告『福音の喜び』106項)。そして青年たちが聖なる母なる教会の温もりを、迎えることにおいても、共に歩むことにおいても感じますように。そしてもう一人の母、イエスの母であり、わたしたちの母でもある方の温もりをも感じますように。マリアさまの手を取って歩む時、恐れが吹き飛び、わたしたちは新しい仕方でほほ笑むことを学ぶのです。
愛する兄弟のみなさん、青年たちは皆さんを待っています。彼らをだますことになりませんように。決断をもってこの挑戦を受けて立つようにとわたしは皆さんを招きます。ラテン・アメリカとカリブのkリスト教共同体が、あらゆる青年たちの、そして青年たち一人一人の同伴者、教師、母となることを身に付けますように。青年たちを教育し、福音化し、弟子宣教師になるようにするのは、ハードで、忍耐のいる務めです。けれどとても緊急で必要なものです。わたしは皆さんに、苦労のし甲斐のあることだ、と告白します。わたしの名で、青年たちに挨拶してください。そしてわたしのために祈ってくれるようにという願いを伝えてください。イエスがいつも皆さんと一緒に進んでくださり、皆さんを祝福してくださいますように。
2月28日(金)、朝ミサ説教:主の芸術のわざである人間。創造の時に終わったわけではない。手が加えられ続いている。
律法学者たちは、「イエスから道徳的な権威を奪う」ためにイエスを罠にかけようとします。教皇は今日の福音においてインスピレーションを得て、結婚の美しさについての要理を提供した。ファリサイ派の人々は、離婚問題をもってイエスの前に現われます。そのスタイルは、いつもどおり、「詭弁」です。「これは合法か、否か」と。
「いつも小さな持ち出します。そしてこれが罠なのです。詭弁の裏には、詭弁的な考えの裏には、いつも罠があります。いつもです!人々に対して、わたしたちに対して、神に対して、いつもです!『しかしこれをするのは合法でしょうか?自分の妻を認めないことはどうですか?』と。そしてイエスは律法に何が書いてあるかを彼らに尋ね、なぜモーセがそのような律法を作ったかを説明しながら応答します。けれどそこで留まりません。詭弁に始まりますが、問題の中心へといきます。ここで、まさに創造の日々へと向かうのです。主のあの言及はとても美しいものです。『創造の始めから、神は男性と女性を造られたのだ。だから、男性はその父を残し、母を残し、そうして二人はまさにたった一つの肉体となるのだ。もはや二人ではないのだから、たった一つの肉体なのだ』と」。
主は、「創造の超大作、すなわち男性と女性について語ります」。神は「男性が一人でいることを望まず、その道の同伴者と一緒にいてほしいと望んだのです」。アダムがエバに会う瞬間、それは詩的な瞬間です。「これは愛の始まりです。たった一つの肉体となって共に行きなさい」と。主は、「いつも詭弁的な考えを受け取って、これを啓示の始まりへと持って行くのです」。他方、「この主の芸術作品は、創造の日々に、そこで終わったのではありません。なぜなら主はこのイメージを、その民に向ける自分の愛を説明するために選んだからです」。その愛は、「民が忠実でない時に」、神の方が「愛のことばをもって、民に語りかける」ほどなのです。
「主は創造の芸術作品の愛を拾い上げて、その民に対して抱いている愛を説明します。いや、何かもっとです。パウロがキリストの神秘を説明する必要にあった時、そこでも妻との関係において、その妻に言及することの中でこれを説明します。なぜならキリストは結ばれているからです。キリストは結婚していたのです。教会、つまりその民とちぎりを交わしていたのです。御父がイスラエルの民と契りを交わしていたように。これが愛の歴史です。これこそが創造という芸術作品の歴史なのです!そしてこの愛の道のりを前に、このイメージを前に、詭弁は地に落ち、痛みへと変わります。けれどこの父と母を残し、一人の女性と一つになり、たった一つの肉体となり、前進することと、この愛が、失敗というものはつきものなので、失敗する時、わたしたちは失敗の痛みを感じ、この自分自身の愛に失敗してしまった人々に寄り添わなければならないのです。罪に定めるのではありません!この人々と共に歩むのです!そしてその状況に対して詭弁をふるわないことです」。
この部分を読む時、「このキリスト者の夫婦の愛の構図、愛の歩みを考えてください。神がその創造という芸術的わざのうちに祝福をしたのです」。「それは決して奪い去られることのない祝福なのです。原罪すらこれを破壊することはできなかったのです!」。このことを考える時、「愛がどれほど美しいものか、結婚がどれほど美しいものか、家族がどれほど美しいものか、この歩みがどれほど美しいものかを見てください。そしてわたしたちが、人生において愛における失敗の不幸を体験した兄弟姉妹たちに対してどれほどの愛、どれほどの近さを持たなければならないかを見てください」。聖パウロの引用をしながら、教皇は「その妻、教会!に対してキリストが抱いている愛」の美しさを強調した。
「ここでも、愛が失敗しないように注意深くあるべきです!あまりに「行けず後家」のようなキリストについて語るものではありません。キリストは教会と結ばれたのです!教会なしにキリストを理解することはできません。そしてキリストなしに教会を理解することもできません。これは創造という芸術作品の大いなる神秘なのです。主がわたしたち全員に、これを理解する恵み、そしてファリサイ派の人々や律法学者たちのこうした詭弁的態度に絶対に陥らない恵みをくださいますように」。
(RC-RV)
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