2017年2月18日土曜日

WYDクラクフ2016 7月28日教皇歓迎式典にて



大好きな青年の皆さん、こんばんは。

ついに出会えましたね。熱狂的な歓迎、ありがとう。ジウィシュ枢機卿と、青年たちに付き添っている司教団、司祭団、修道士たち、修道女たち、信徒の皆さん、ありがとう。

今日みんなでここにいられるようにしてくれた皆さん、ありがとう。皆さんは信仰を祝うことができるように「一役買って」くれました。信仰を祝うこと、今日、私たちは全員で一緒に、信仰を祝っています。この、聖ヨハネ・パウロ二世の誕生の地で、特に彼に感謝したいと思います。(大拍手、大歓声)、もっと、もっと強く!彼こそがこの集いを夢見、促してくれた人ですから!

こんなにも様々な国、文化、言語に属するこんなにも多くの青年たちがたった一つの動機、つまり「イエスが私たちの間で生きているということを祝う」という動機で集まっているのを天から見守り、同伴してくれています。皆さんは、生きているイエスを祝い、イエスが活きていると口にすることはどういうことか、私たちがイエスに従う気、このついて行く熱意を体験する気を新たにしたいと望むことはどういうことかを理解してきました。

イエスとの友情を新たにするためにはあなたたち同士の間で友情を確かなものにすることほど良い機会はありません! 私たちのイエスとの友情を確かなものとするのにこの友情を他の人々と分かち合うことほど良い機会はありません! 福音の喜びを生きる最高の方法は、痛みや困難に満ちた、実にたくさんの状況で「良い知らせ(福音)を伝染させたいとのぞむことです!

この第31回ワールドユースデーに私たちを呼び集めてくださったのはイエスです。「あわれみ深い人は幸いである、その人はあわれみを受ける」(マタイ57節)と私たちに語っているのはイエスです。赦すことのできる人たち、共感に満ちた心が持てる人たち、他の人々に自分の持ちうる最良のもの、余ったものではなく最良のものを与えることのできる人達は幸いである、と。

大好きな青年の皆さん、この数日ポーランド、この気高い土地は、祭り一色に着飾っています。この数日、ポーランドはいつくしみの常に若々しい顔であることを望んでいます。この地から、皆さんと共に、それから今日ここにいることはできないけれど様々なメディアを通して私たちと共にいる多くの青年たちと一つになって、みんなで一緒にこのワールドユースデーを、いつくしみの特別歓喜の年において、ほんものの歓喜の祭典にしましょう。

司教として暮らしてきて学んだことがあって、それを皆さんに言いたい。人生を生きている多くの青年たちのやる気、献身、熱意、エネルギーを眺めることほど美しいものはありません。これは美しい。この美しさはどこから来るのか。イエスが若い男の子、若い女の子の心に触れる時、これは本当にものすごいわざを行うことができるのです。青年の夢、質問、物事や、何も変わらないと言うものすべてに対抗する気合いに耳を傾けるのは価値のあることです。私が「だんまり屋」と呼んでいる人たちには、何も変えることができません。青年たちはまさにこれを変える力を持っています。でもそのことに確信が持てずにいる人もいます。でも皆さんに質問します。物事は変えられますか?(青年たち「はい!」)

色々な疑問を抱えて、物事が今とは違ったものになるようにと求めているこんなにも多くの皆さんを見ることができるのは、天からのプレゼントです。皆さんが暴れるほどに沸き立っているのを見るのは素晴らしいことで、私の心を力づけます。教会は今日、皆さんを見ています。もっと言えば、世界が今日皆さんを見ています。そして御父のいつくしみにはいつも若々しい顔があり、私たちが御国の一部、私たちをいつも前進させ、物事を変える能力のある存在にしてくれる御国の一部であるようにと私たちを招かずにはいないということへの信頼を新たにするために、皆さんから学びたいと望んでいます。改めて皆さんに質問しますよ。物事は変えられますか?(青年たち「はい!」)

皆さんが宣教にかける熱意を知りながら、もう一度繰り返しますね。いつくしみにはいつも若々しい顔があります。なぜならいつくしみ深い心は自分の居心地の良さから出て行こうというやる気を出させるからです。いつくしみ深い心は他の人々との出会いに赴くことができ、ついにすべて人を抱きしめるからです。

いつくしみ深い心は一度も家を持ったことのない人々、あるいは家を失ってしまった人々のための避難所になることができます。移民を余儀なくされた人々のための家庭、家族の雰囲気を作ることができます。温もりと共感を知っています。いつくしみ深い心は腹を空かせている人とパンを分かち合うことができます。いつくしみ深い心は逃亡者や移民を迎え入れるために自らを開放します。皆さんと一緒にいつくしみを語ることはつまりひとつの機会です。明日を語ることはつまり献身の約束であり、信頼、開き、おもてなし、共感、つまり夢です。皆さんは、夢を見る能力がありますか? そして開かれた心が夢を見る能力を持っている時、そこにはいつくしみのための場所ができます、苦しむ人をやさしくなでるための場所があります。心に平和の無い人々、生活に必要な物に欠けている人々、もっとも美しいもの、信仰、いつくしみに欠けている人々を助けるための場所があります。さぁ、この言葉を皆で一緒に言いましょう。いつくしみ、全員で。(いつくしみ)もう一度(いつくしみ)世界に聞こえるようにもう一度!(いつくしみ!)

それからここ数年学んだことをもう一つ皆さんに告白したいと思います。誰をも責めるつもりはありません。定年が来る前に「定年退職」してしまったかのように見える青年たちに会うと私には痛みが生じます。これは痛い。23歳、24歳、25歳くらいでまるで「定年退職」しているかのような青年。ゴングが鳴る前に「リングにタオルを投げてしまった」青年たちを見るのは物憂い。試合が始まる前に「試合放棄」してしまった青年たち。まるで自分の人生には価値がないかのように悲しい顔で歩く青年を見ると胸が痛みます。本質的につまらないと感じていて、つまらなくする、周りをつまらなくする青年たち。これは胸が痛みます。

同時に懐疑的な青年は難しい。他方、「陶酔」や暗い道を進んで得られる生きた実感を求めて生活を棒に振り、最終的に「支払って」終わる…しかも高い代償を払って終わる青年たちを見るのもつらい。皆さんが知っている青年で、こうした道を選んでしまった多くの青年たちのことを考えてください。偽りの幻想を売る人々やものを追いかけて、人生の美しい年月とそのエネルギーを失う青年たちがどんなにいるかを見て問題にしてください。皆さんから皆さんの持っている最高のものを奪い取っていく、そういった偽りの幻想の販売人(私の生まれ故郷では「煙の販売人」とか呼んでいます)がいるのです。これは胸が痛みます。今日は皆さんのなかにはこうした人はだれもいないと確信していますよ。

だから、大好きな友達の皆さん、私たちが集まったのは互いに助け合うためなのです。なぜなら私たち持っている最高のものを盗まれたくないからです。私たちからエネルギーを盗み、私たちから偽りの幻想を使って喜びや夢を盗んでいくのを許したくないからです。大好きな友達の皆さん、質問します。皆さんは、自分の人生にそのような流れから引き離す陶酔を求めますか、それとも自分たちを生き生きと、満たされたものと感じさせる力を感じたいと思いますか。流れから引き離す陶酔か、恵みの力か。皆さんが求めるのは何ですか。流れから引き離す陶酔ですか、恵みの力ですか。よく聞こえませんよ。

満たされてあるには、新たにされた力を得るには、売り買いできない答えがあります。ものではない、対象物ではない答えがあります。それは一人の人で、イエス・キリストと呼ばれます。主に拍手を!(大喝采)

イエス・キリストはお金で買えますか? イエス・キリストはお店で売られていますか? イエスキリストは賜物です。御父からのプレゼントです。私たちの御父からの賜物なのです。イエス・キリストは賜物。全員で!(「イエス・キリストは賜物!」)

イエス・キリストは皆さんにいのちへのほんものの熱意を与えることができる方です。イエス・キリストは少しで満足せずに私たち自身の持っている最良のものを与えるようにと私たちを動かす方です。私たちに疑問を投げかけ、私たちを招き、私たちが打ち負かされるたびに立ち上がるのを助けてくれるのはイエス・キリストです。私たちが眼差しを上げ、高い夢を描くようにと促すのはイエス・キリストです。

「でも、神父さん、高い夢を描くのは難しい、出かけていくこと、いつも外にいるのは難しいと言う人もいるでしょう。」「神父さん、私は弱い、転びます、努力するんですが、よく転ぶんです。」そう言う人もいるでしょう。登山家は、山に出て行く時に、とても美しい歌を歌います。こんな感じの内容です。「出かけていくコツで大切なのは落ちないことではなくて、落ちたままでいないこと。」もしあなたが弱いなら、もし落ちるなら、少し上を見てごらんなさい、イエスが手をのばして起き上がれと言っているのを見るでしょう。もしもう一回やったらどうだろう。もう一度、もしもう一度落ちたら?また起き上がるのです。ペトロが質問した時イエスは答えました。770倍。イエスの手はいつも転んだ時に私たちを起き上がらせるためにあります。皆さん、分かりましたか?

福音書の中で私たちはこんなことを聞きました。イエスがエルサレムに向かう時に、自分を迎えるある家、マルタとマリア、ラザロの家に留まります。旅の途中に、彼らと共に居るために、イエスが心を動かすことができると知っている、迎えてくれる女性たち二人と共に居るために、その家に入ります。

多岐にわたる仕事が私たちをマルタのようにします。活動的で、せわしなく、ひっきりなしにこっちに来たりあっちに行ったりして。それでも結構マリアのようにもなります。きれいな景色の前で、あるいは友達が携帯に送ってくれるビデオを前に、私たちは考えにふけったり、耳を傾ける態度を取ったりします。

このワールドユースデーの数日間、イエスは私たちの家に入りたいと望んでいます。あなたの家、わたしの家、私たち一人ひとりの心に入りたいと望んでいます。イエスは入りたがっていて、そこで私たちの加速する歩みの中で、マルタにしたように私たちの心配事を見るでしょう。そしてマリアのようにイエスに耳を傾けるのを期待するでしょう。忙しく動き回る真っ最中に、イエスに自分を捧げる勇気を持ちましょう。この数日がイエスのためのもの、私たち自身に耳を傾けるために捧げられた数日、家や通り、クラブや学校で共に過ごす人々のうちにイエスを迎え入れる数日になりますように。

そしてイエスを迎え入れる人は、イエスのように愛することを学びます。そこでイエスは私たちに質問します。満たされた命を求めているか、と。さて、私は皆さんにイエスの名において質問します。皆さんは満たされた命を望みますか? (「はい!」) この瞬間から、心を動かされるに任せてください。なぜなら幸福はいつくしみのうちに生まれ、花開くからです。それがイエスの応えです。それがイエスの招き、挑戦、冒険です。いつくしみ。いつくしみにはいつも若々しい顔があります。イエスの足元に座っていたベタニアのマリア、イエスの所に平和があると知っているから好んでイエスに耳を傾けるあの女弟子マリアの顔のような若々しい顔。いつくしみの冒険に自分の「はい」という答えで乗り出し、世々に至るまで「幸せな人」と呼ばれるようになり、私たちみんなから「いつくしみの母」と呼ばれるナザレのマリアの顔のように若々しい顔です。

というわけで、みんな一緒に、今主に願いましょう。「いつくしみの冒険に私たちを送りこんでください。」

みんな一緒に取り次ぎを願いましょう。いつくしみの母マリア、「いつくしみの母マリア、いつくしみの冒険に私たちを送りこんでください」。今度は、みんな一緒に主に願いましょう。一人ひとり、心の中で沈黙のうちに願ってください。

主よ、いつくしみの冒険に私たちを送りこんでください。橋を建設し、壁や柵、格子鉄線を崩す冒険に。貧しい人、孤独を感じる人、見捨てられた人、生きる意味を見いだせなくなった人を救う冒険に私たちを送りこんでください。あなたを知らない人々と共に歩み、彼らに起き上がるように言い、深い敬意をもってあなたの名と私の信仰の理由を語るために私たちを送りこんでください。

ベタニアのマリアのように、私たちには理解のできない人たち、他の文化や国から来ている人たち、さらには自分たちを傷つけるかもしれないと思っているために私たちが恐れている人々にも耳を傾けるために、私たちを後押ししてください。エリサベトに対してナザレのマリアがしたように、私たちが自分の顔を、私たちの知っている高齢者たち、私たちのおじいちゃんやおばあちゃんに向け直させ、その知恵から学ばせてください。ちょっと聞いてみますよ。みなさんは自分のおじいちゃんやおばあちゃんと話しますか? まぁまぁでしょ? 彼らに会いに行きなさい。彼らには人生の知恵があります。そうすれば皆さんの心を動かすことを体験するでしょう。

主よ、ここに私たちがいます。あなたのいつくしみに満ちた愛を分かち合うために私たちを派遣してください。このワールドユースデーで私たちはあなたを迎え入れたいのです。いつくしみをもとに生きた時に命は満たされたものとなり、それが一番いい部分、一番おいしい部分、私たちから決して取り去られることのない部分であることを確認したいのです。アーメン。

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