2017年2月18日土曜日

WYDクラクフ2016 十字架の道行きにて



「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。』 (Mt 25,35-36).

 このイエスの言葉はしばしば私達の脳裏や心にこだまする「神はどこにいるのか」という問いに答えています。世界には悪があるのに、人々が飢餓に苦しんでいるのに、家がない人がいるのに、逃亡生活しているのに、逃げ込む先を探しているのに、神はどこにいるのか。無垢な人が暴行やテロ、戦争で死ぬとき、神はどこにいるのか。ひどい病が命のつながりや愛情を破壊するときに、神はどこにいるのか。子どもたちが人身売買に回されたり、辱めを受けたり、あるいはひどい病理に苦しんでいる時、神はどこにいるのか。疑いのある人や苦悩する魂を抱える人のやるせなさを前に、神はどこにいるのか。人間的な答えの見つからない問いがあります。そこではイエスを見つめ、イエスに問い掛ける以外有りません。そしてイエスの答えはこれです。「神はその人たちと共にいる」。イエスは彼らと共にいて、彼らの内で苦しみ、その一人ひとりと深く自分を重ねているのです。イエスは「たった一つの体」ともいえるようなものを形作るほどに彼らと一つになっているのです。
 イエス自身、自分をこうした苦悩する兄弟姉妹の一人とみなすことを選び、カルワリオへと導く痛みに満ちた道を進むことを受け入れました。イエスは、十字架上で死にゆきながら、御父の御手に自らをゆだね、行いの伴う愛をもって、裸や飢え、渇き、孤独、痛み、あらゆる時代の男女の死を背負いました。この午後のひとときに、イエスが、そしてイエスと共に私達が、戦争から逃げてきたシリアの兄弟たちを特別な愛をもって抱擁します。彼らに兄弟愛と共感を持ってあいさつし、受け入れます。
 イエスの十字架の道をたどりながら、わたしたちは14の憐れみのわざを通してイエスの型に自分たちを当てはめていくことの重要性を再発見しました。これらのわざはわたしたちが神のいつくしみに自らを開き、いつくしみなくして何もなされえないこと、そう、いつくしみなくしてはわたしも、あなたも、わたしたちすべてが何も出来ないことを理解する恵みを求めることが出来るようにしてくれます。最初に身体的な慈しみのわざを七つ見ましょう。飢えた人に食べさせること、渇いた人にのませること、旅人を迎え入れること、病人の側にいること、刑務所にいる人を訪問すること、死者を弔うことです。こうしたことをわたしたちはただで受けたのだから、ただで与えなければならないのです。わたしたちは疎外された人すべての中で十字架に架けられているイエスに仕え、除外されている人、飢え渇き、裸で、刑務所に入れられ、病み、雇用がなく、迫害され、逃亡中で、移民となっている人のうちにおられるイエスの祝福に満ちた肉体に触れるようにと呼ばれています。そこで私達の神に出会い、そこで主に触れるのです。イエス自身このことをわたしたちに語り、わたしたちが裁かれることとなるその「規定事項」を説明します。こうしたことをわたしたちの兄弟のうち最も小さな者にすることは、これを主と共に行うのです(マタイ2531-46節参照)。
 身体的ないつくしみのわざの後に、霊的なわざがきます。助言を必要な人に助言し、物を知らない人に教え、過ちのある人を正し、悲しむ人を慰め、されたことをゆるし、忍耐をもって厄介な人に耐え、生者と死者のために神に願い求めるように。わたしたちのキリスト者としての信ぴょう性は身体的に傷ついている疎外されている人々や、魂において傷ついている罪人の受け入れ方に依拠します。それは概念的にではありません。
 今日、人類は男女、特に皆さんのような青年たち、「中途半端な」生き方をしたがらない、わたしたちの救いのためにささげ尽くしたキリストに模して、最も貧しく弱い兄弟たちに寛大に奉仕するために自分の人生を捧げる心構えのある青年たちを必要としています。
 悪や苦しみ、罪を前にして、イエスの弟子にとっての唯一の応答の可能性は、キリストに倣って命をも含め自分自身をささげることにしかありません。これが奉仕の姿勢です。もし自分はキリスト者であると言っている人が人の役に立つために生きるのではないなら生きること自体役に立たないものになるのです。自分の命でイエス・キリストを否むことになるのです。
 愛する青年の皆さん、今夜、主は皆さんが奉仕の主役となるようにと改めて皆さんを招いています。皆さんを人類の窮乏と苦しみに対する具体的な答えとなるようにと望んでおられます。皆さんがわたしたちの生活する現代にとっての慈しみに満ちたその愛のしるしとなるようにと望んでおられるのです。
 この使命を果たすために、主は個人的な献身、自己犠牲の生き方を示しておられます。それは十字架の道です。十字架の道は、しばしば日々の生活の劇的な状況において、最後までキリストに従う幸福の道です。それは失敗や孤立、孤独を怖れない道です。人の心をキリストのあふれる程の豊かさで満たすからです。十字架の道は命の道、神のあり方の道であり、イエスがしばしば分裂し不正や汚職に満ちた社会の小道をも通っていくようにと命じておられるその道です。
 十字架の道は自虐的な道でも他者を苦しめて喜ぶ道でもありません。十字架の道は罪や悪、死に打ち勝つ唯一の道です。新しく満たされたいのちへの地平を開くキリストの復活の輝かしい光に流れ込んでいく道だからです。それは希望と未来の道です。信仰をもって寛大にこの道を歩む人は希望の種を蒔きます。そしてわたしは皆さんがそうした希望の種蒔きとなるようにと望んでいるのです。
 愛する青年の皆さん、あの聖金曜日には、多くの弟子たちが悲嘆に暮れて自分の家に帰り、またほかの弟子たちは十字架を忘れるために農地に仕事に出かけることを選びました。今私は問います。そして皆さん一人ひとり自分の心の中で応えてください。今夜皆さんはどのような心持ちで自分の家や宿泊所、テントに帰りたいですか。今夜どのように自分自身を見いだしたいと望んでいますか。
 世界はわたしたちを見ています。皆さん一人ひとりがこの問いの挑戦に対して答えるにふさわしいかを見ているのです。

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