2015年4月4日土曜日

1月25日、夕の祈り、キリスト教一致週間締めくくり説教




 ユダヤからガリラヤへの旅の時に、イエスはサマリアを通りました。イエスには異端として見られ、分裂を生み、ユダヤ人から隔てられていたサマリア人と出会うことに困難はありませんでした。その態度は、わたしたちとは異なる人々と顔を合わせることが、わたしたちを育てるということを理解させます。旅に疲れたイエスは、サマリア人女性に水を求めるのにためらいません。その渇きは、周知のとおり、肉体的な渇きを超えています。それは出会いへの渇きでもあり、あの女性にうちなる回心の道の可能性を提供しながら対話を繰り広げる望みでもあります。イエスは忍耐強く、自分の目の前にいる人を尊重し、段階を踏んで自らを啓示します。その模範は他の人と平和裏に向き合うことを求めるようにと励まします。互いに理解し合い愛徳と真理において成長するためには、留まり、受け入れあい、聞き合う必要があります。このようにして、すでに一致を体験するということが始まります。一致は歩みのうちに行われ、決して立ち止まったままにはなりません。一致は歩きながら行われるのです。

 シカルの女性はイエスに神への真の礼拝の場所について尋ねます。イエスは山上説にも神殿説にもなびかず、これを超えて、本質的なところに行き、分裂の壁をすべてぶち壊します。イエスは礼拝の真理について言及するのです。「神は例である。そして礼拝する者は例と真理においてこれを行わなければならない」と(ヨハネ424節)。過去から受け継がれてきたキリスト者同士の間での論争は議論や弁証の態度、わたしたちを一つにするもの、つまり、聖霊を通して御子によって啓示された御父の愛の神秘に加わる呼びかけを不覚いところで共に理解しようとする態度を一切脇に追いやって分裂させることができます。わたしたちが確信しているのは、キリスト者の一致とは、それぞれお自分の意見に基づいて他者を説得しようとする理論的な洗練された議論の結果ではないでしょう。それでは人の子が来ても、わたしたちは議論し続けている羽目になります。神の神秘の深みに到達するためには、互いの存在が必要であり、出会っている必要があり、多様性を調和させ、対立を乗り越え、多様な意見を和解させる聖霊の導きのもとに顔を合わせる必要があるのだということを認めなければなりません。

 すこしずつ、サマリアの女性は飲ませてほしいと求めてきた人が、自分の渇きをいやしうるということを理解していきます。イエスは今後ずっとその渇きを癒す生きた水の湧き出る泉として彼女に自らを紹介します(ヨハネ41314節参照)。人間の存在は限られた願いを示します。真理の探究、愛や正義、自由への渇きといったように。こうした望みはただ一部を満足させるだけです。なぜならその存在のもっとも深いところから、人は「もっと」というところ、決定的にその渇きを満たすことのできる絶対的なものへと動かされるからです。こうした願いへの答えを、神はその過ぎ越しの神秘において、イエス・キリストのうちに出します。イエスの貫かれた脇腹から地と水とがほとばしり出ました(ヨハネ1934節参照)。イエスこそ聖霊の水、つまり洗礼の日に「わたしたちの心に注がれた神の愛」(ローマ55節)が湧き出る泉なのです。聖霊の働きによって、わたしたちはキリストのうちに一つになり、御子のうちに神の子どもとなり、御父のほんとうの礼拝者となったのです。この愛の神秘が、全キリスト者を一つにする一致のもっとも深い動機であり、それは長い歴史の中で生まれてきた創意よりもずっと偉大なものなのです。こうしたわけで、主イエス・キリストに謙虚に近づく度合いに従って、わたしたち同士の間でも互いに歩み寄ることになるのです。

 イエスとの出会いはサマリアの女性を宣教者にします。井戸の水よりも偉大で大切な賜物を受けると、その女性は持っていた甕をそこに残し(ヨハネ428節参照)、同じ町の仲間たちに、キリストに出会ったと告げに走っていきます(ヨハネ429節参照)。イエスとの出会いが生きる意味と喜びを回復し、彼女はこれを人に伝えたいという望みを感じます。現代において、キリスト者に水を飲ませてほしいと求める疲れ飢えた男女の群れが存在しています。これはわたしたちが見逃してはならない願いです。福音宣教者となる呼びかけにおいて、諸教会すべてと教会に属する諸共同体はより直截的な協力体制のための基本的な環境を見いだします。この献身を効率的に達成するためには、単に人間的な計画に基づいた単一性を押し付けると言ったような、自分の独自性や除外性に閉じこもることを避けなければなりません(『福音の喜び』131参照)。福音を告げ知らせるという共通の献身の約束はあらゆる種類の改宗主義や競争の誘惑を乗り越えさせることができます。誰もが唯一で同じ福音への奉仕に当たっているのです。

 この一致のための祈りの時に、わたしは現代の殉教者たちのことを思い出したいと思います。彼らはイエス・キリストを証しし、キリスト者であるがために迫害され処刑されています。そこでは迫害者たちは自分が属するところの信仰告白と他の信仰告白の何が違うのかを見極めることもありません。彼らはキリスト者であり、そのために迫害されています。兄弟姉妹のみなさん、これは、血のエキュメニズムです。

 こうした現代における殉教者たちの証しを胸に刻みながら、そしてこの歓喜に満ちた確信をもって、わたしはエキュメニカル教父の代表であるメトロポリタ・ゲンナディオス様、カンタベリー大司教のローマ使節代表のダヴィッド・モクソン様、聖パウロの回心の祝日にここに集まっておられる諸教会、また教会に属する諸共同体の代表者全員にあいさついたします。さらに、ローマでここ数日の間に合同会議を行うにあたりわたしが実りある働きを望んでいるカトリック教会と東方正教会の神学的対話のための混合委員会の役員のみなさんにあいさつできるのをうれしく思っています。それからボッセイのエキュメニカル学校の学生たちとキリスト者の一致推進のための委員会で働き、東方正教会との文化協力委員会から出された奨学金のおかげで勉強している青年たちにもあいさつします。

 それから今日、ここに諸教会、教会に属する諸共同体の修道者、修道女のみなさんがいらっしゃいます。皆さんは、奉献生活年にあたって、キリスト者一致推進評議会との協力のうちに奉献・使徒的生活会省によって企画された、エキュメニカルの集いに参加してきました。修道生活は、未来の世界の預言として、今の時代に合ってあらゆる相違を超えて、歓迎と対話の具体的諸決断からなるそのキリストとの一致の証しをするようにと呼ばれています。つまり、キリスト者の一致の探求はこうした問題になっていることに対して敏感な限られた修道者や修道共同体のみに特化されるべきではないのです。奉献生活の様々な伝統の相互理解と、経験の実りある情報交換は、諸教会や教会に属する諸共同体におけるあらゆるかたちの修道生活の活力のために有用となりうるのです。

 愛する兄弟姉妹のみなさん、今日わたしたちは、平和と兄弟愛に飢えています。唯一の祭司であり仲介者であるイエス・キリストを通して、天の御父に信頼に満ちた心で呼びかけます。天の御父が、おとめマリアや使徒パウロ、諸聖人の取次によって、わたしたちに全キリスト者の完全な一致の賜物を下さり、全世界にとっての和解のしるしまた道具として、「教会の一致の聖なる神秘」(第二バチカン公会議Unitatis Redintegratio, 2参照)を輝かせることができますように。なれかし(アーメン)。

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