2015年4月3日金曜日

1月11日(日)、主の洗礼、説教



 わたしたちはさきほど第一朗読で、主が父親のようにその息子たちのことを心配するというのを聞きました。自分の息子たちに支えとなる糧を与えることで心配しています。預言者を通して神はこう言います。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(イザヤ552節)と。神は、よい父親やよい母親のように、その息子たちによいものを与えたがっています。ではこのかみがわたしたちに下さる支えとなる糧とはいったい何なのでしょう? それはみ言葉です。わたしたちを成長させ、人生においてよい実りをもたらすことができるようにするみ言葉です。それはちょうど雨や雪が、大地を潤し、実りをもたらすようにするのと同じです(イザヤ551011節参照)。そのようにご両親のみなさん、それから代父母のみなさんも、祖父母のみなさんも、おじさんたちやおばさんたちも、もし神の御子と場、イエスの福音をここにいる子供たちに与えるならば、かれらがよく育つのを助けることになるのです。そして模範をもってしてもこれを与えるのです! 毎日、短くていいから、福音の一説を読む習慣を身につけ、いつも小さな福音書をポケットや手提げに持ち運び、読めるようにしておくのです。そしてこれは子どもたちにとって模範になるのです。お父さんやお母さん、代父母やおじいちゃん、おばあちゃん、おじさんたちが神のみことばを読んでいるということが。

 お母さんたち、子どもたちにミルクをおあげなさい。いまでも、もしおなかがすいて泣いているようなら、おっぱいをお上げなさい、問題ありませんよ。ミルクの賜物に、主に感謝しましょう。そして子供たちに食べさせるものがないような状況にいるお母さんたち-嘆かわしいことに、大勢います-のために祈りましょう。こうしたお母さんたちのために祈り、またなんとかして助けようとしましょう。そういうわけで、体にとってのミルクが、精神にとってのみことばです。神のみことばは信仰を育てます。そして信仰のおかげで、わたしたちは神から生まれるのです。これが洗礼の時に起こることです。先ほど使徒ヨハネのことばを聴きました。「イエスがキリストであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(Iヨハネ51節)。この信仰のうちに、皆さんの息子さんたちは洗礼を受けます。今日、愛するご両親のみなさん、代父母のみなさん、皆さんの信仰です。この小さな子たちが洗礼を受ける信仰は教会の信仰です。けれど明日は、神の恵みによって、自分の信仰になるでしょう。御父からの愛をわたしたちに与えるイエス・キリストに対する個人的な「はいという答え」になるでしょう。

 これは教会の信仰です、と言いました。これはとても重要なことです。洗礼はわたしたちを教会、神の聖なる民という体に導きます。そしてこの体の中で、この歩く民の中で、信仰は幾世代にも及んで伝えられます。これが教会の信仰なのです。それはわたしたちの母であるマリアの信仰であり、聖ヨセフの信仰であり、聖ペトロの、聖アンデレの、聖ヨハネの、使徒たちの、殉教者たちの信仰であり、わたしたちにまで、洗礼を通して及びました。信仰伝達の連鎖です。これはとっても素敵ですね! それは信仰の光が手から手へと渡されていくことです。このことを、もう少ししたら、大きな復活のろうそくから手元のろうそくに灯をともすという仕草で表現します。大きな復活のろうそくは、わたしたちの間で生きておられる、復活したキリストを象徴しています。家族のみなさんは、そのイエスから、息子さんたちに伝達するために信仰の光を受けなさい。これがこの教会の中、キリストのからだの中、各時代、各地で歩く神の民の中で手にする光なのです。皆さんのお子さんたちに教会の外ではキリスト者ではありえないこと、教会なしではイエス・キリストに従うことはできないことを教えなさい。なぜなら教会は母であり、わたしたちをイエス・キリストへの愛において育てるからです。

 もう一つ最後に、今日の聖書朗読から力強く湧き上がってくる局面を話します。洗礼において、わたしたちは聖霊によって聖別されるということです。「キリスト者」ということばはこのことを意味しています。イエスのように、イエスがその地上での存在すべてにおいて浸っていた同じ聖霊のうちに聖別されることを意味するのです。イエスこそ「キリスト、油注がれた者、聖別された方であり、わたしたち洗礼を受けた人は「キリスト者」、つまり、聖別された人、油注がれた人なのです。そういうわけですので、愛するご両親のみなさん、愛する代父母のみなさん、もしお子さんにほんもののキリスト者にいつかなってほしいとのぞむならば、彼らが聖霊のうちに、つまり神の愛の熱のうちに、みことばの光のうちに「浸りきって」育つのを助けなさい。ですから、毎日、頻繁に聖霊を呼び求めるのを忘れてはなりません。こんな会話をします。「お母さん、あなたはお祈りしますか?」「はい、します」「だれに祈るんですか?」「わたしは神さまに祈ります」。けれども、いわゆる一般的に言った神さまなど、存在しないのです。神はペルソナなのです。ペルソナには御父、御子、聖霊があります。「あなたは、だれに祈るんですか?」「御父に、御子に、聖霊に」となるところです。一般的にはわたしたちはイエスに祈ります。「主の祈り」を祈るときは、御父に祈ります。けれど聖霊には、あまり呼びかけないようです。聖霊に対して祈るのはとても大切なことです。なぜならわたしたちに、この子たちが聖なる三位一体の雰囲気の中で育つためにどう家族を発展させ、子どもたちを育てていくかを教えてくれるからです。ですので、毎日、しばしば聖霊を呼び求めるのを忘れないでください。たとえば、このシンプルな祈りでもできます。「聖霊来てください、あなたを信じるわたしたちの心を満たし、愛の火をともしてください」。この祈りを皆さんの子どもたちのためにすることができますし、それだけではなく、自然なことですが、皆さん自身のためにこの祈りをすることも出来るのです。

 この祈りを口にするとき、みなさんはおとめマリアの母としての現存を感じるでしょう。マリアはわたしたちに聖霊を呼び求め、イエスのように、聖霊に従って生きることを教えてくれます。わたしたちの母であるおとめマリアが、皆さんの子どもたちや皆さんの家族の歩みと共にいつも歩んでくださいますように。なれかし(アーメン)。

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