2014年5月11日日曜日

5月5日(月)、朝ミサ説教:キリスト者が、虚栄や権力への上、金銭への飢えから自由であるように


 教会に虚栄や権力への飢え、あるいは金銭への飢えからイエスに従う人々がいます。主が、ただ愛によってのみイエスに従う恵みをわたしたちに下さいますように。聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教の中で、パパ・フランシスコはこう願った。

 パンと魚の増殖の後、飢えが満たされたためだけでイエスを捜す人々をイエスが叱るその日の福音朗読に始まって、 パパはわたしたちが愛によって主に従っているのか、それとも何らかの得をするために従っているのかを自問するように招いた。「なぜならわたしたちは罪びとで、イエスへの追従において、いつも清められなければならない損得勘定によるものがあるからです。そして、主に、主によって従い、愛によって従うために内面的に一仕事しなければならないのです」。「イエスは、イエスに従うため、あるいは神を探し求めるために良くない三つの態度についてほのめかしています。最初のものは虚栄です」。特に、あの目立つ人たち、人に見てもらうために施しをしたり、断食をする「宗教指導者」たちについて言及します。

「こうした指導者たちは見られたいと望んでいました。彼らは、正しい言い方をするならば、(七面鳥のように<)思い上がるのが好きで、本当の間抜け(>七面鳥)のように立ち振る舞っていたのです。そうだったのです。そしてイエスは言います。「だめ、だめ。これじゃあだめだ。だめだよ。虚栄はためにならない」と。そしてしばしば、わたしたちはちょっとみてもらおうとして、ちょっと虚栄を求めて物事を行います。虚栄は危険です。というのは虚栄はすぐにわたしたちが驕り、傲慢に陥るようにし、結局そこで終わってしまうからです。そして自問します。わたしは、イエスにどのように従っているだろうか?わたしがしている良いことは、人に気づかれずにしているだろうか?それとも人に見られるのが好きなのだろうか?」

 「そして、わたしたちのことをも思います。わたしたち、司牧者たちです」。なぜなら「虚栄心のある司牧者は、神の民のためにならない」からです。司祭であっても、司教であっても、もし「虚栄が好き」なら「イエスに従っていません」。「イエスが叱っているもう一つのことは、権力に従っている人々のことです」。

「ある人たちはイエスに従っていますが、少し、完全に意識しながらではなく、つまり少し無意識的にです。なぜなら権力を求めているからです、どうですか?一番わかりやすいケースはゼベダイの息子たちヨハネとヤコブです。イエスに、み国が来た時には首相と副首相にしてほしいと頼んだのです。そして教会に、よじ登ろうとする人がどれほど多くいることか!教会を利用して…でももしよじ登るのが好きなら、北部に行って、登山をすればいいんです。その方が健康的です。でも教会によじ登るために来ないでください!そしてイエスは、こうした権力を求めてよじ登る人々を叱りつけるのです」。

 「聖霊が来て初めて、弟子たちは変わったのです。けれどわたしたちキリスト者の生活においては罪は残っているので、次のような問いをするのはためになるでしょう。わたしはイエスにどのように従っているのだろうか?十字架までをも、イエスに従うことだけを純粋に求めているのでしょうか?それとも権力を求め、少し教会を使っているでしょうか?キリスト教共同体、小教区、教区を、ちょっと権力を持つために用いていないでしょうか?」「まっすぐな意向からわたしたちを遠ざける三つめのことは、金銭です」。

「お金のためにイエスに従っている人々は、お金を使って小教区やキリスト教共同体、教区、病院、学校などを経済的に私利私欲のために利用しようとします。この誘惑に遭った初期キリスト教共同体のことを考えましょう。シモン、アナニア、サフィラといった人々です。この誘惑は最初の時からあり、本当に多くのよいカトリック信者、よいキリスト者、友だち、教会に寄付をした恩人、勲章をいくつもいただいた日々とをも含めて、多くの人たちが、後でちょっとはっきりしない取引をしたことが見つかった、というのを知っています。彼らは本当に傍観者で、たくさんのお金を手にしたのです。教会の恩人として紹介されながらしかし、たくさんお金をもらっており、そのお金は必ずしもいつも清かったわけではありません」。

 パパは説教を結ぶにあたりこう言った。「聖霊に、わたしたちがまっすぐな意向で、ただ主にのみしたがって後をついていくことができる恵みをくださるように求めましょう。虚栄も、権力の望みも、金銭の望みもなく」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

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