今日も、「意識の主人」が実に多い。国によっては神の名で人を殺す人がいたり、福音や十字架を持っているせいで牢に送られる国もある。聖マルタの家の小聖堂でささげられたミサの間にこう語り、十字架に架けられたキリスト者に関するニュースを前に涙したと語った。
パパはその説教を、パンと魚の増殖の福音と使徒言行録からとられた朗読箇所で、イエスの弟子たちが最高法院でむち打たれた箇所を中心にした。フランシスコは三つのイメージを示した。最初のものは、人々へのイエスの愛と、人々の抱える問題に取り組む態度である。
主は自分に何人の人がついてくるかは気になりません。「イエスの脳裏には、たとえば、教会が大きくなったか」を調べるために「人数の調査をするなどという考えは浮かびません。そんなことしないのです!イエスは語り、宣告し、愛し、同伴し、人々とともにその道を、柔和で謙遜にめぐるのです」。そして権威をもって語ります、つまり、「愛の力」をもって語るのです。
二つ目のイメージは、当時の宗教的権威の「焼きもち」です。「人々がイエスの後を追うのに耐えられなかったのです!見ていられなかったのです!焼きもちを焼いてしていました。そしてそれは醜い態度だと語ったのです。そして焼きもちから妬みに。妬みの父は悪魔だとわたしたちは知っています」。そして妬みのせいで「世に悪が入り込んだのです」。「この人々は、イエスが誰であったかをよく知っていました。知っていたのです!この人々は見張りにお金をつかませて、使徒たちがイエスの体を盗んだと言わせたのと同じ人々です!」
「彼らは真理を黙らせるためにお金を払いました。けれど人々は悪いです。本当に!なぜなら真理を隠すために払われると、わたしたちはとても悪い人になるのです。だから人々はこの人たちはだれなのかよく知っていたのです。人々にはついていき、我慢していました。なぜなら彼らには権威があったからです。儀礼に関する権威、当時の教会の決まりに関する権威、民に関する権威・・・人々はこれについていったのです。イエスはこの人のことを、信者たちに重い重圧をかけてしばりつけ、人々の背中に重荷を載せていた、と言いました。この人々はイエスの柔和に耐えられません。福音の柔和に我慢できず、愛に我慢できません。そして妬み、憎しみのせいで買収するのです」。
最高法院の会議の際、ガマリエルという「賢い人」が出ます。ガマリエルは使徒たちを釈放するようにと宗教指導者たちに招きます。このように、二つのイメージがあるのです。イエスは「牧者のいない」人々と、宗教の権威を見て心動かされます。
「この人々は、民を支配し続けるために、政治的操作や教会的操作を用います。そうして、使徒たちを呼びつけます。この賢い人が語った後、使徒たちを呼び、鞭打たせ、イエスの名において何も語らないようにと命令しました。そうして、彼らを解放したのです。『けれど、何かしなければならない。まずは杖でばっちり叩いてから、家に帰そうじゃないか!』 正しくないけれど、これを行ったのです。 彼らは意識の主人で、自分たちにそれを行う権力があると感じていたのです。意識の主人…今日も、世の中には、そういう人々がたくさんいます」。
「キリスト教ではないある国で、十字架に架けられているキリスト者」に関するニュースを「メディアを通してみたとき、わたしは泣きました」。今日も、そういう人々がいるのです。神の名のもとに殺し、迫害する人々が。そして今日も、「使徒たちのように」「イエスの名のために屈辱を受けて苦しむに値するものとして裁かれる幸せ」を感じる人々もたくさんいるのを見ます。これが「今日の三つめのイメージです。証しの喜びです」。
「最初のイメージは、人々とともにいるイエスでした。愛、イエスがわたしたちに教えてくれた道で、そこを行かなければなりません。二つ目のイメージは、こうした民の宗教指導者たちの偽善で、この戒律や、冷淡で厳しい法律で民を牢に入れ、また真理を隠すために買収した人々です。三つめは、キリスト者の殉教の喜びです。歴史の中で、イエスの名のために屈辱を苦しむに値するものとして裁かれたことによるこの喜び、この幸せを感じてきたわたしたちの兄弟姉妹の多くに見られる喜びです。そして、今日、実にたくさんいます!福音書を持ち歩いているということだけで、あなたは牢屋に送られる、そういう国々もあるということを考えてみてください。あなたは十字架を持ち歩くことができないのです。そうすれば罰金を払わされるからです。けれど、心は幸福を感じます。三つのイメージです。今日、これを見つめましょう。それはわたしたちの救いの歴史の一部です」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).
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