2014年5月11日日曜日

5月8日(木)、朝ミサ説教:教会は恵みを与えるのであって、官僚主義を認めるものではない


(訳者中:「官僚的」という言葉が否定的意味合いを持つのは、日本の文脈ではあまり当てはまらないかもしれません。日本の役所の皆さん、とても親切に敏速に働いてくれますから。でも、外国の多くでは、役所で手続きとかするようなものなら、何時間も待たされたり、書類集めにたらいまわしにされたりして、結局お金と時間をぼったくられることが多いのです)
 
 教会で秘跡を執行するように呼ばれている人は、神の恵みに場を譲らなければならず、「官僚的な」仕方で障害を置くべきではありません。聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教でパパ・フランシスコはこう語った。

 「福音宣教をするのは神です」。パパはしばしば人々の神への接近に障害となりうる教会における官僚化の行き過ぎに反論しながら、この真理を再確認した。そして倣わなければならないモデルは聖フィリポであると語った。第一朗読の箇所で、聖フィリポを見ると、キリスト者の透明な特質を三つ取り上げることができる。つまり、聖霊への素直さ、対話、そして恵みにおける信頼である。最初のものは、聖霊がフィリポに活動を途中でやめてエチオピア女王の宦官がエルサレムとガザの間を旅している馬車に追いつくようにと求めた瞬間に出発するところに見られる。

「フィリポは、従います。主の呼びかけに素直に答えるのです。きっとしなければならないことをたくさん脇にやらなければならなかったでしょう。なぜならあのころの使徒たちは福音宣教でとても忙しかったからです。フィリポはすべてを置いて、行きます。そしてこのことは、この神の声への素直さがなければだれも福音宣教できないことを福音宣教できず、誰もイエス・キリストのことを告げ知らせることができないことをわたしたちに見えるようにしています。最高に頑張っても自分の宣伝にしかなりません。神こそが呼びかける方であり、神こそがふぃりっぽを歩みに据える方なのです。フィリポは行きます。フィリポは従順です」。

 フィリポにとって、エチオピアの宦官との出会いは福音の宣告の機会になります。けれどこの教えは、上から賜れるもの、押し付けられるものではありません。これは使徒が、イザヤの預言の箇所を読みながら理解できずにいたその対話の相手の霊的感性を尊重しながら始める対話です。

「対話なしでは福音宣教はできません。できないのです。なぜならあなたは、まさに福音を受けるべき人がいるところから始めなければならないからです。そしてこのことはどれほど大切なことか!『でも、神父さん、かなり時間を失いますよ。なぜなら一人一人にそれぞれの歴史があり、これをもって、自分のアイデアをもってその人は来るからです』。そうやって時間を失う・・・神は世界を作るのにもっと時間を失いましたが、善く作ったのです!対話。ほかの人といて時間を失うこと、なぜならその人が、神があなたに福音宣教をしてほしいと望んでいる人、あなたが一番重要であるイエスのニュースを与えるようにと望んでいる人だからです。けれどあるがままに、あらねばならないようにではなく、今あるがままに、です。

 フィリポの言葉は、エチオピアの宦官の内側に洗礼を受けたいという望みを引き起こし、旅路で一番初めに見つけた水の流れで、そのように起こるのです。フィリポは神の手の中で、その恵みによって、エチオピア人の洗礼を執行します。奉仕者は、同時に、信仰を生み出すことができるものでしょう。「おそらくこのことは、福音宣教をするのは神であるということをわたしたちがよりよく理解するのを助けます。

「福音宣教のこの三つのステージについて考えましょう。福音宣教をするための従順、人々との対話に従って神が命じることを行うこと、けれど彼らがいるところから出発するのです。そして三つめ、恵みにゆだねることです。どのような官僚主義よりも恵みの方が大切なのです。「何がこれを妨げるでしょう?」このことを思い出しましょう。そして何度わたしたちは恵みにおいて人々が恵みに到達できないようにするために、妨害をつくり出すための会社になっているでしょう。主がこのことを理解できるようにしてくださいますように」。


(María Fernanda Bernasconi – RV).

5月6日(火)、朝ミサ説教:教会は宗教の大学ではない


 証しをしないキリスト者は不毛になります。聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教の中でパパ・フランシスコはこう語った。この機会に、教皇は使徒言行録で語られている聖ステファノの殉教にとどまった。そして教会は「宗教の大学では」なく、イエスに従う民なのです、と言った。そうしてのみ、「実りをもたらすものであり、母でありうるのです」。

 「ステファノの殉教は、イエスの殉教のコピーです」。パパ・フランシスコはその説教で、教会の最初の殉教者の死へと導いた歩みをたどりなおした。ステファノも、イエスのように、自分を消そうとする「宗教指導者たちの妬み」にあいまみえたのです。ステファノにも「偽の証人」が立てられ、「裁判も急いでなされたのです」。ステファノは、イエスが言ったように、彼らが聖霊に反していると忠告しました。けれど「この人々は落ち着きませんでした。自分の心に平和がなかったのです」。この人々にはその心に「憎しみがありました」。こういうわけで、ステファノの言葉を聞くと怒り狂ったのです。「この憎しみは悪魔によってその心に飢えつけられたものです」。「これは悪魔のキリストに対する憎しみです」。

 この悪魔の憎しみは「イエス・キリストに対してその受難の時にしたいようにしたものですが、今同じことを」ステファノに「繰り返します」。一方で、イエスは自分の名が原因で迫害されることに喜ぶべきだと自分のもとにある人々に語っていました。「イエスのために迫害されること、殉教者になること、いのちを与えることは、真福八端の一つなのです」。だから、対抗するために「何かせずに教会や一人の人の聖性を見ることができないのです」。そしてこれこそがステファノに対してすることですが、「ステファノはイエスのように、ゆるしながら死にます」。

「殉教とは、ギリシア語の翻訳で、証しとも訳されるものです。このように、一キリスト者にとっては、道は子の証しの足跡をたどり、イエスの証しをするためにイエスの足跡をたどるものであるということができます。そして、しばしば、子の証しはいのちをささげて終わるのです。一キリスト者を証しのないもの、証しをしないものとして理解することはできません。わたしたちは、概念の「宗教」、純粋に神学の「宗教」、美しいことの「宗教」、掟の「宗教」ではないのです。違います。わたしたちはイエス・キリストに従い証しをする民なのです。しかし実にイエス・キリストの証しをしようと望んでいるのです。そしてこの証しは時にはいのちを差し出すことにまで至るのです」。

 使徒言行録を読むと、ステファノが殺されると、「エルサレムの教会に対して暴力的な迫害が勃発した」と書いてあります。こうした人々は「力があると感じていて、悪魔はこれを行うようにと促したのです」。そうして、「キリスト者たちはユダヤ地方やサマリア地方へと散らばっていったのです」。迫害が、この「人々を遠くに行くように」と促したのです。そこで、福音が説明するに至ったように、イエスの証しをし、そうして「教会の宣教が始まった」のです。「こうした人々の話を聞いて、実に多くの人々が回心しました」。教会の恐怖の一人は、このことを、「殉教者たちの血はキリスト者の種です」と説明しています。「その証し」をもって「信仰についての宣言をしていたのです」。

「証しは、日々の生活においては困難において、また迫害にあっては死をもって、いつも実りをもたらす力のある者なのです。教会は、イエス・キリストの証しをするときに、実りを持つ能力があり、母でありうるのです。一方、教会が自分自身に閉じこもり、自らを美しい考えに満ち、たくさんの美しい聖堂を持ち、たくさんの美しい美術館を持ち、たくさんの美しいものがある、言わば「宗教の大学」と信じ込むけれど証しをしない時、教会は不毛になります。キリスト者も同じです。証しをしないキリスト者は、イエス・キリストから受けたいのちを与えることがないなら、不毛であり続けます。

 ステファノは、「聖霊に満たされていました」。「わたしたちの中に聖霊の現存がないなら証しをすることはできません」。「困難な時、正しい道を選ばなけrばならない時、おそらく私たちを誘惑しようとする多くの物事に「ノー」を言わなければならない時に、聖霊への祈りがあります。そして聖霊こそが、この道、証しの道を行くためにわたしたちを強くしてくださるのです」。

「そして今日、この二つのイメージ、死にゆくステファノと、暴力的な迫害のためにどこにでも逃げていくキリスト者というイメージを思いながら、自問しましょう。わたしの証しはどうなっているだろうか?わたしはイエスの証しであるキリスト者だろうか?それともこのセクトの中で数を増やしている人の一人だろうか?わたしは証しをすることで実りをもたらす力を持っているだろうか、それとも聖霊がわたしのキリスト者としての召し出しにおいて前進させるのにゆだねることができないために不毛であり続けているだろうか?
(María Fernanda Bernasconi – RV).

5月5日(月)、朝ミサ説教:キリスト者が、虚栄や権力への上、金銭への飢えから自由であるように


 教会に虚栄や権力への飢え、あるいは金銭への飢えからイエスに従う人々がいます。主が、ただ愛によってのみイエスに従う恵みをわたしたちに下さいますように。聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教の中で、パパ・フランシスコはこう願った。

 パンと魚の増殖の後、飢えが満たされたためだけでイエスを捜す人々をイエスが叱るその日の福音朗読に始まって、 パパはわたしたちが愛によって主に従っているのか、それとも何らかの得をするために従っているのかを自問するように招いた。「なぜならわたしたちは罪びとで、イエスへの追従において、いつも清められなければならない損得勘定によるものがあるからです。そして、主に、主によって従い、愛によって従うために内面的に一仕事しなければならないのです」。「イエスは、イエスに従うため、あるいは神を探し求めるために良くない三つの態度についてほのめかしています。最初のものは虚栄です」。特に、あの目立つ人たち、人に見てもらうために施しをしたり、断食をする「宗教指導者」たちについて言及します。

「こうした指導者たちは見られたいと望んでいました。彼らは、正しい言い方をするならば、(七面鳥のように<)思い上がるのが好きで、本当の間抜け(>七面鳥)のように立ち振る舞っていたのです。そうだったのです。そしてイエスは言います。「だめ、だめ。これじゃあだめだ。だめだよ。虚栄はためにならない」と。そしてしばしば、わたしたちはちょっとみてもらおうとして、ちょっと虚栄を求めて物事を行います。虚栄は危険です。というのは虚栄はすぐにわたしたちが驕り、傲慢に陥るようにし、結局そこで終わってしまうからです。そして自問します。わたしは、イエスにどのように従っているだろうか?わたしがしている良いことは、人に気づかれずにしているだろうか?それとも人に見られるのが好きなのだろうか?」

 「そして、わたしたちのことをも思います。わたしたち、司牧者たちです」。なぜなら「虚栄心のある司牧者は、神の民のためにならない」からです。司祭であっても、司教であっても、もし「虚栄が好き」なら「イエスに従っていません」。「イエスが叱っているもう一つのことは、権力に従っている人々のことです」。

「ある人たちはイエスに従っていますが、少し、完全に意識しながらではなく、つまり少し無意識的にです。なぜなら権力を求めているからです、どうですか?一番わかりやすいケースはゼベダイの息子たちヨハネとヤコブです。イエスに、み国が来た時には首相と副首相にしてほしいと頼んだのです。そして教会に、よじ登ろうとする人がどれほど多くいることか!教会を利用して…でももしよじ登るのが好きなら、北部に行って、登山をすればいいんです。その方が健康的です。でも教会によじ登るために来ないでください!そしてイエスは、こうした権力を求めてよじ登る人々を叱りつけるのです」。

 「聖霊が来て初めて、弟子たちは変わったのです。けれどわたしたちキリスト者の生活においては罪は残っているので、次のような問いをするのはためになるでしょう。わたしはイエスにどのように従っているのだろうか?十字架までをも、イエスに従うことだけを純粋に求めているのでしょうか?それとも権力を求め、少し教会を使っているでしょうか?キリスト教共同体、小教区、教区を、ちょっと権力を持つために用いていないでしょうか?」「まっすぐな意向からわたしたちを遠ざける三つめのことは、金銭です」。

「お金のためにイエスに従っている人々は、お金を使って小教区やキリスト教共同体、教区、病院、学校などを経済的に私利私欲のために利用しようとします。この誘惑に遭った初期キリスト教共同体のことを考えましょう。シモン、アナニア、サフィラといった人々です。この誘惑は最初の時からあり、本当に多くのよいカトリック信者、よいキリスト者、友だち、教会に寄付をした恩人、勲章をいくつもいただいた日々とをも含めて、多くの人たちが、後でちょっとはっきりしない取引をしたことが見つかった、というのを知っています。彼らは本当に傍観者で、たくさんのお金を手にしたのです。教会の恩人として紹介されながらしかし、たくさんお金をもらっており、そのお金は必ずしもいつも清かったわけではありません」。

 パパは説教を結ぶにあたりこう言った。「聖霊に、わたしたちがまっすぐな意向で、ただ主にのみしたがって後をついていくことができる恵みをくださるように求めましょう。虚栄も、権力の望みも、金銭の望みもなく」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

5月4日(日)、アレルヤの祈り:エマオへの道

4月30日(水)、一般謁見:聡明の賜物

2014年5月4日日曜日

使徒的勧告『福音の喜び』第三章までの翻訳

噂では、間もなく『福音の喜び』の出版が期待されているのですが、まだ手元にはないので、とりあえず個人的な翻訳を続けています。今、三章の翻訳が終わりました。どうぞ。

5月2日(金)、朝ミサ説教:十字架に架けられているキリスト者たちのために涙する。今日も神の名のもとに人が殺されている


 今日も、「意識の主人」が実に多い。国によっては神の名で人を殺す人がいたり、福音や十字架を持っているせいで牢に送られる国もある。聖マルタの家の小聖堂でささげられたミサの間にこう語り、十字架に架けられたキリスト者に関するニュースを前に涙したと語った。


 パパはその説教を、パンと魚の増殖の福音と使徒言行録からとられた朗読箇所で、イエスの弟子たちが最高法院でむち打たれた箇所を中心にした。フランシスコは三つのイメージを示した。最初のものは、人々へのイエスの愛と、人々の抱える問題に取り組む態度である。

 主は自分に何人の人がついてくるかは気になりません。「イエスの脳裏には、たとえば、教会が大きくなったか」を調べるために「人数の調査をするなどという考えは浮かびません。そんなことしないのです!イエスは語り、宣告し、愛し、同伴し、人々とともにその道を、柔和で謙遜にめぐるのです」。そして権威をもって語ります、つまり、「愛の力」をもって語るのです。

 二つ目のイメージは、当時の宗教的権威の「焼きもち」です。「人々がイエスの後を追うのに耐えられなかったのです!見ていられなかったのです!焼きもちを焼いてしていました。そしてそれは醜い態度だと語ったのです。そして焼きもちから妬みに。妬みの父は悪魔だとわたしたちは知っています」。そして妬みのせいで「世に悪が入り込んだのです」。「この人々は、イエスが誰であったかをよく知っていました。知っていたのです!この人々は見張りにお金をつかませて、使徒たちがイエスの体を盗んだと言わせたのと同じ人々です!」

「彼らは真理を黙らせるためにお金を払いました。けれど人々は悪いです。本当に!なぜなら真理を隠すために払われると、わたしたちはとても悪い人になるのです。だから人々はこの人たちはだれなのかよく知っていたのです。人々にはついていき、我慢していました。なぜなら彼らには権威があったからです。儀礼に関する権威、当時の教会の決まりに関する権威、民に関する権威・・・人々はこれについていったのです。イエスはこの人のことを、信者たちに重い重圧をかけてしばりつけ、人々の背中に重荷を載せていた、と言いました。この人々はイエスの柔和に耐えられません。福音の柔和に我慢できず、愛に我慢できません。そして妬み、憎しみのせいで買収するのです」。

 最高法院の会議の際、ガマリエルという「賢い人」が出ます。ガマリエルは使徒たちを釈放するようにと宗教指導者たちに招きます。このように、二つのイメージがあるのです。イエスは「牧者のいない」人々と、宗教の権威を見て心動かされます。

「この人々は、民を支配し続けるために、政治的操作や教会的操作を用います。そうして、使徒たちを呼びつけます。この賢い人が語った後、使徒たちを呼び、鞭打たせ、イエスの名において何も語らないようにと命令しました。そうして、彼らを解放したのです。『けれど、何かしなければならない。まずは杖でばっちり叩いてから、家に帰そうじゃないか!』 正しくないけれど、これを行ったのです。 彼らは意識の主人で、自分たちにそれを行う権力があると感じていたのです。意識の主人…今日も、世の中には、そういう人々がたくさんいます」。

「キリスト教ではないある国で、十字架に架けられているキリスト者」に関するニュースを「メディアを通してみたとき、わたしは泣きました」。今日も、そういう人々がいるのです。神の名のもとに殺し、迫害する人々が。そして今日も、「使徒たちのように」「イエスの名のために屈辱を受けて苦しむに値するものとして裁かれる幸せ」を感じる人々もたくさんいるのを見ます。これが「今日の三つめのイメージです。証しの喜びです」。

「最初のイメージは、人々とともにいるイエスでした。愛、イエスがわたしたちに教えてくれた道で、そこを行かなければなりません。二つ目のイメージは、こうした民の宗教指導者たちの偽善で、この戒律や、冷淡で厳しい法律で民を牢に入れ、また真理を隠すために買収した人々です。三つめは、キリスト者の殉教の喜びです。歴史の中で、イエスの名のために屈辱を苦しむに値するものとして裁かれたことによるこの喜び、この幸せを感じてきたわたしたちの兄弟姉妹の多くに見られる喜びです。そして、今日、実にたくさんいます!福音書を持ち歩いているということだけで、あなたは牢屋に送られる、そういう国々もあるということを考えてみてください。あなたは十字架を持ち歩くことができないのです。そうすれば罰金を払わされるからです。けれど、心は幸福を感じます。三つのイメージです。今日、これを見つめましょう。それはわたしたちの救いの歴史の一部です」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).