2014年3月23日日曜日

3月20日(木)、朝ミサ説教:あなたは、誰に信頼していますか?

 
 自分や自分の財産、自分の主義主張に信頼を置く人には不幸が定められています。主に信頼する人は一方、乾季であっても実りをもたらします。セマルタの家でのミサで、木曜日の朝にパパ・フランシスコが語った言葉である。

 「人に信頼し肉体に支えを求めながら、その心が主から離れている人は、呪われている!」 「自分自身を信頼する人」は「ステップ気候の地方にある小灌木の茂み」のようになりる。荒れた中で実りもなくなり死んでしまう。パパは、この日の第一朗読が定義している言葉に始めた。一方で、「主に信頼する人は祝福されている!」「その人は水辺に植えられた気がその根を流れに向けて伸ばし、暑さが訪れても恐れず、その葉はいつも生い茂る。乾きの年にも揺るがず実りをもたらさなくなることはない」。「主においてのみ、わたしたちの信頼というのは確かなものになります。ほかの信頼は役に立ちません。わたしたちを救うことがないのです。わたしたちに命を与えないのです。わたしたちに喜びを与えないのです」。そしてもしそれを知っていながら、「わたしたちが自分たちに信頼すること、知り合いの友人に信頼すること、恵まれているよい環境や自分の主義主張に信頼することを好む」のなら、「主はすこし脇に追いやられています」。人はこのように、「展望もなく、開かれた扉もなく、窓もなく」自分自身に閉じこもります。そして「救いはありません。自分では自分を救うことができないからです」。そしてこれが福音書の金持ちに生じることなのです。「すべてのものを持っていて、紫の衣を着て、毎日素晴らしい宴会をして食べていた」あの金持ちです。「あんなにも幸せ」でしたが「自分の家の扉の所に傷だらけの」貧しい人が横たわっていた「ことに気づかなかったのです」。教皇は、福音書が貧しい人の名前を口にすることを強調した。その名前はラザロであった。いっぽうで、金持ちの方には「名前がない」のである。

 「そしてこれが自分自身や人の力や可能性には信頼するけれど神には信頼しない人の一番激しい呪いです。名前を失うことです。あなたの名前はなんですか?数値や銀行の名前が挙がるでしょう。あなたは何と呼ばれているのですか?多くの財産や家、多くのもの…あなたは何と呼ばれているのですか?持っているもの、さまざまな偶像。そしてあなたはそうしたものに信頼を置いている。こういう人は呪われています」。

 「だれもがこうした弱み、脆さを持っています。自分の希望を自分自身、あるいは友達、あるいは人間的な可能性だけにおいて神のことを忘れてしまうという弱さです。そしてこれはある道にわたしたちを導くのです…不幸の道です」。

「今日、この四旬節の日に、「わたしの信頼はどこに置かれているのだろう?主だろうか、それともわたしは自分で作り上げてきたものや偶像に信頼を置く異教徒だろうか?わたしにはまだ名前があるだろうか?それとも名前を失い始め、自分のことを「わたし・俺、わたしに、わたしと、わたしのために、わたしだけ」としか呼ばなくなっていないだろうか」と自問することは益になります。自分のため、自分のため…いつもこうした利己主義、「自分」があります。これはわたしたちに救いをもたらすことはありません」。

 けれど「最終的には」あの自分自身に信頼して「名前を失ってしまった」人々に「救いの扉があります」。

「最後の最後の、一番最後にいつも一つの可能性があります。そしてこの人は、名前を失ってしまったことに気づいた時、すべて、あらゆるものを失ってしまった時、目を上げ、たった一言口にするのです。『お父さん』。そして神の答えは一言、『わが子よ!』 もしわたしたちのうちだれかが人生の中で、人や自分自身だけに信頼して、名前を失い、尊厳を失ったなら、この言葉を言う可能性だけが残るのです。それは不思議で、より素晴らしく、より強いものです。『お父さん』。神様はわたしたちに見える扉を開こうと待っており、わたしたちにこういうのです。『わが子よ』と。わたしたち全員に主のみに信頼し、物事や人の力ではなくただ彼にのみ信頼する知恵をくださる恵みを主に願い求めましょう。

(RC-RV)


0 件のコメント:

コメントを投稿