2014年3月24日月曜日

3月18日(火)、朝ミサ説教:四旬節は生き方を変えるのに役立つ。聖人の「衣装をかぶった」偽善者をやめよう

 四旬節は「生き方の調整をする」ための時、「主に近づくため」の時です。パパ・フランシスコは今朝聖マルタの家の小聖堂で祝われたミサの説教でこう強調した。教皇は「他の人々よりも自分の方がよい」と感じないようにと忠告をした。そして偽善者たちは「よい人の衣装をかぶって」、誰もが「義とされる必要性がある」のだから「誰も自分自身で義(ただ)しくあることはない」ということを理解しないのだ、と語った。

 「回心」という言葉でパパ・フランシスコはその説教を始め、これがイエスに「近づくため」の絶好の時である四旬節のキーワードであることを強調した。そしてイザヤ書からとられた第一朗読のコメントをしながら、ソドムとゴモラのような「二つの町」を回心へと主が招くさまを観察した。誰にでも「自分の生き方を変え」、いつも何かが見つかる場所である「わたしたちの魂をよく」見る「必要性がある」のは確かなのです。四旬節はまさにこのことです、つまり、主に近づきながら「生き方の調整をすること」です。なぜなら彼は、「わたしたちに近くにいてほしい」と望んでおり、「わたしたちのゆるしのためにわたしたちを待っている」ことを約束しているからです。しかしながら、主は「誠実に近づいてくること」を望んでいて、わたしたちが偽善者にならないように気を付けるよう招きます。

「偽善者は何をしますか?衣装で変身するのです、いい人の衣装をかぶるのです。模範的な人の顔付をし、天を仰いで祈り、人に見られ、他の人よりも自分の方がただしいと感じ、他の人々を軽視するのです。『でも、わたしはすごいカトリックなんですよ。なぜってわたしの叔父はたくさん献金してきたし、私の家族はこういう家族で、それでわたしはこういう風で…、こういうことを学んできて…、誰それ司教を知っているし、誰それ枢機卿、誰それ神父を知っているし…わたしは…」と。ほかの人たちよりも自分の方がよいと感じています。これを偽善と呼びます。主は「いいえ、は、いいえとしなさい(ダメはダメ)」 と言っています。誰も自分で正しくあることはありません。誰もが義とされる必要性があるのです。そしてわたしたちを義とする唯一の方はイエス・キリストです」。

 こういうわけで、「この見せかけが通り過ぎると、本当の姿が見える、つまり、キリスト者ではないことがわかってしまうような、衣装をかぶったキリスト者にならないために」主に近づかなければならないのです。偽善者にならずに主に近づくためにどうすればよいかという問いを前に、フランシスコはその答えは第一朗読で主自身がわたしたちに与えてくださっていると語った。「身を洗いなさい、清めなさい、その行いの悪いところを私の目の届くところから遠ざけなさい、悪を行うことをやめなさい、良いことを行うことを学びなさい」。これが招きです。そしてわたしたちがよい道を進んでいることを示すしるしはどのようなものかを問うにあたり、パパはこう語った。

「『抑圧されている人を救い、孤児に義を行い、やもめの件を擁護しなさい』。隣人や病人、貧者、欠乏にある人、無知な人のために時間を割きなさい。これが試金石なのです。偽善者はこれをするすべを知りません。できないのです。なぜならあまりに自分のことでいっぱいで、他の人々に目を向けるには盲目になっているからです。少し歩き始めて主に近づけば、主の光がこうした物事をみえるようにし、兄弟たちを助けに行けるようにしてくれるものです。これがしるしです。これが回心のしるしなのです」。パパはたしかに「すべてのことが回心であるわけではない」と見解を述べた。それは、実際、「イエス・キリストとの出会い」なのですが、「わたしたちがイエス・キリストと共にいることのしるしはこれなのです」。マタイ福音書の25節で読まれるように「兄弟や、貧しい人々、病気の人々を、主が教えてくださったように世話することなのです」 。

「四旬節は、主に近づくために生き方の調節をするため、生き方に秩序を与えるため、生き方を変えるための時です。主から離れていることのしるしは、偽善にあります。偽善者は主を必要とせず、自分で自分を救い、そうして、聖人の衣装を身に着けていると考えるのです。わたしたちが主に近づいていることのしるしは、償いをもって、ゆるしを願いながらなされるもので、わたしたちの欠乏にある兄弟たちの世話をすることにあります。主がわたしたちに光と勇気のすべてをくださいますように。わたしたちの中に生じていることを知るための光と、回心して主に近づく勇気を。主の近くにいることは素晴らしいことです!」

(María Fernanda Bernasconi – RV).

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