2014年2月12日水曜日

2月7日(金)、朝ミサ説教:キリスト者の状況を活用せずに福音を宣べ伝えること


 パパはその説教を、洗礼者ヨハネの殉教から始めて発展させ、彼のように、キリストの本当の弟子は預言をわがもの顔に用いることなく謙遜の道を続けるということを強調した。

 ヘロデは愛人のヘロディアとその娘の気まぐれを満足させるためにヨハネを殺させる。パパは今日の福音で語られたヨハネの悲劇的死について考えを巡らせた。「ヨハネには、人生の短い時間がありました。神のみ言葉を告げ知らせるために短い時間があったのです」。彼は「神がその御子への道を準備するために遣わした人でした」。そしてヨハネはヘロデが宮廷で「祝宴を開いていた時に」その人生を不幸に終えます。

 「宮廷があるところでは、何でも可能です。腐敗、中毒、犯罪。宮廷というところはこうしたものを好むのです。ヨハネは何をしたのでしょう?何よりも主を告げ知らせたのです。救い主は近く、主、神の国は近いということを告げ知らせ、それを力強く行ったのです。そして洗礼を授けていました。すべての人に回心するように呼びかけていました。力強い人だったのです。そしてイエス・キリストを告げ知らせていました」。

 「ヨハネが行った最初の大偉業は、イエス・キリストを告げ知らせることでした」。他にしたことと言えば、「その道徳的権威を我が物顔でもちいらなかったことです!」「『わたしがメシアだ』という可能性が与えられていました。というのは多くの道徳的権威があったからです」。「あらゆる人々が彼のもとに行っていました」。そして福音はヨハネがすべての人に回心するようにと執拗に訴えたことを語っています。そしてファリサイ派の人々、学者たちはこの自分の強さを見ていました。「彼はまっすぐな人でした」。そこで彼はメシアかどうかと尋ねてきたのです。そして、あの「虚栄の有柄悪の瞬間に」、澄ました顔」をつくろい、「よく分りません」と「偽りの謙遜」をもって言えてしまうあの瞬間に、その代わりに「違う!わたしはそれではない!わたしより後から来られる方はわたしよりも力強く、わたしにはその肩の履物を脱がせることすらできないほど価値がないのです」と言うのでした。ヨハネは、「はっきりしていました」。「呼び名を盗むことをしませんでした。使命を我がもの顔で振りかざすことはありませんでした」。これが、つまり、「『真理の人』が行った二つ目のことなのです」。「尊厳を奪わないこと。ヨハネが行った三つ目のことは、キリストを真似することです」。ヘロデも、彼を殺したのです。「イエスがヨハネではないかと思っていた」からです。ヨハネは、「へりくだりの道で徳に」イエスを真似しました。ヨハネは謙遜になり、極限まで、死にいたるまでへりくだりました」。

 「恥ずかしさを与える死。ヨハネにも自分の『オリーブの園』がありました。牢屋で不安になり、間違ってしまったと思っていた時に、イエスに自分の弟子たちを送って質問させました。『おっしゃってください。あなたが間違っているのか、わたしが間違っていたのか、他にいるのでしょうか?』と。魂の暗闇、オリーブの園にいたイエスのように浄めるあの暗闇です。そしてイエスはヨハネに、慰めを受けて答えました。あの神の人、神の女性の暗闇です。福者カルカッタのマザー・テレサの魂の暗闇について今この瞬間にわたしは考えます。でしょう?あぁ、あらゆる人々がたたえていた女性、ノーベル賞も得た人です!けれどその人生、長い人生のある瞬間には、ただ暗闇があったことを知っていたのです。

 「イエス・キリストを告げ知らせる人であるヨハネは」「預言を我が物顔で用いることはしませんでした」。彼は弟子のモデルです。けれど、「この弟子の態度の源泉はどこにあったのでしょうか?」それは出会いに会ったのです。福音は、マリアとエリザベトの出会いの時に、ヨハネがエリザベトのお腹の中で喜びのあまり飛び跳ねたと私達に語っています。彼らはいとこ同士だったのです。「おそらく、その後も何度も出会っていたことでしょう。そしてあの出会いは喜びに満ちていました。ヨハネの心を喜びでいっぱいに満たしてくれたのです。そして彼を弟子としたのです」。ヨハネは「イエスを告げ知らせる男、イエス・キリストの居場所で成り替わることのない人、そしてイエス・キリストの道に従う人でした」。

 「わたしたちの弟子としての生き方について自問するのは役に立ちます。イエス・キリストのことをわたしたちは告げ知らせているでしょうか?まるで特権のように、キリスト者というわたしたちの状況を活用する、あるいは活用しないでいるでしょうか? ヨハネは預言を我が物顔で持ちいらなかったでしょうか?軽蔑の道、謙遜の道、奉仕のためにへつらうほど下がることは?わたしのイエス・キリストとの出会いはいつだったでしょうか?あの、喜びで満たしてくれたあの集いは?そして出会いに戻るといえば、最初の出会いのガリラヤに戻りましょう。わたしたち誰にでも一つはあります!そこに戻るのです!主と出会い直し、この実に美しいこの道を前進するのです。そこでは彼が大きく育ち、わたしたちは小さくなるのです
. (RC-RV)

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