2014年2月26日水曜日

2月21日(金)、朝ミサ説教:働きのない信仰は、信仰ではない


 「わざにおいて実りをもたらさない信仰は、信仰ではありません」。聖マルタの家で今朝ささげられたミサの説教をパパ・フランシスコはこのようなことばで始めた。世界は信仰宣言の言葉を暗記できているけれども、その内容を実践できないキリスト者、あるいは神学を、のちにその知恵を人生において具体的に反映させることのない、さまざまな可能性の一覧に分類する学者さんでいっぱいです。これは聖ヤコブが2000年前におそれていた危険であり、パパがヤコブの手紙の箇所についてコメントしながらその説教で今日、改めて取り上げた危険である。「その断言ははっきりしています。人生における実りのない信仰、わざにおける実りをもたらさない信仰は、信仰ではないのです」。

「わたしたちもこれについて何度もわたしたちは過ちを犯してきました。『でもわたしにはたくさん信仰があります』と言うのを聞きます。『私は全部信じてます、全部』。そしてこういうことを言いながらぬるく、弱い人生を送っていることもあり得るのです。その信仰は、理論のようであるけれど、その生き方で体験されていないものなのです。使徒ヤコブは、信仰について語るとき、まさに教義について、信仰の内容であるあのことについて語ります。みなさんは十戒のすべてを知り、あらゆる予言を知り、あらゆる信仰の真理を知ることができますが、もしこれを実践せず、わざに行かなければ、役に立たないのです。理論的に信仰宣言を暗唱できるかも知れませんが、信仰なしでもできますし、実に多くの人がそのようにしています。悪魔だって同じことをするのです!悪霊たちは信仰宣言において言われていることをよく知り、それが真理であることを知っています。

 教皇のことばは聖ヤコブの断言の中で響く。「あなたは、たった一人の神がいることを信じているのですよね?いいでしょう。悪霊たちですらこれを信じ、おそれに震えるのです」。違いは、悪霊には「信仰がない」ということです。なぜなら「信仰を持つということは、知識を持つということではなく」、キリストによってもたらされた「神のメッセージを受けること」だからです。

 福音において、「信仰は持たないけれど信じなければならないことは知っている」人のことを示す二つの種類のしるしに出会います。最初のしるしは税金を払うのは正当か、また(死んだ後)七人の夫のうちどの人がやもめと結婚すべきかを尋ねる人々に代表される「詭弁」です。二つ目は「主義」のしるしです。

「概念システムとして信仰について考えるキリスト者は、イエスの時代にもいました。使徒ヨハネはこうした人たちについて、彼らは反キリスト、信仰に関する概念主義者、またこれに限らずどんなことについてでも、概念主義者であると言っています。あの時代にはグノーシス主義がありましたが、ほかにもさまざまな主義がありましたそしてそのように、この人々は詭弁に陥いりました。あるいは主義に陥った人々は悪霊たちのように、教義は知っているけれど信仰のないキリスト者でした。違いは、これに恐れをなすか、あるいは、落ち着いて生活しているかにあるだけです」。

 その反対に、福音には「教義は知らないけれど強い信仰を持っている人々」の例もあることをフランシスコは思い出させた。ローマ司教は憑依の犠牲である娘のための癒しを信仰において得るカナン人の話と、「抽象概念ではなくイエス・キリスト」 に出会ったためにその心を開くサマリア人の話を引用した。また、イエスによって癒され、そのためにファリサイ派の人々や律法学者たちに尋問され、ついに謙虚にひざまずき自分を癒してくれた人を礼拝するに至った目の見えない人のことをも引き合いに出した。この三人は信仰と証がどれほど不可分であるかを示しています。

「信仰にはいつも証しが伴います。信仰はイエス・キリストとの出会い、神との出会いであり、そこから生まれ、証しへと導くのです。使徒がいいたいのはこれです。わざのない信仰、あなたを巻き込まない信仰、証しにあなたを導かない信仰は、信仰ではない、ということです。これは言葉だけです、言葉以外の何物でもないのです」。
 (RC-RV)

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