2014年2月3日月曜日

2月2日(日)、主の奉献のミサ説教:世の光であるキリストとの出会いの神秘=遵守と預言、喜びと素直さ





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 『主の奉献』の祝い、わたしたちをいつも驚きと感謝の念で満たす「イエスの民との最初の出会い」の祝い、そして同時に第18回世界奉献生活の日において、パパ・フランシスコは「イエスに出会い、彼を認め、受け入れ、抱きしめることのできる神殿、つまり教会にわたしたちを連れてくる」「イエスが中心にいる」と繰り返した。サン・ピエトロ大聖堂で、火の灯ったろうそくをもって行われる行列の補助的儀式を、その教皇職において初めて行いながら、ローマ司教はこの主日、2月2日に、「主の律法において歩む喜びを」もって「若いマリアとヨゼフが」エルサレム神殿に「うまれたばかりの」世の光であるキリストを「つれていった」ことを記念する日を祝った。


〔①〕マラキ3・1~4
〔②〕ヘブライ2・14~18
〔福〕ルカ2・22~40

パパ・フランシスコの説教全文


 神殿へのイエスの奉献の祭りは、出会いの祭りとも呼ばれています。イエスとその民との出会いの始まりです。マリアとヨセフがその赤ん坊をエルサレム神殿に連れて行った時、シメオンとアンナという二人の老人に代表される民とイエスとの初めての出会いが生じました。


 あの出会いは民の歴史の内部での出会いでもあります。つまり若者たちと老人たちとの間の出会いです。若者というのは生まれたばかりの赤ちゃんを連れたマリアとヨセフです。そして老人というのは神殿に足しげく通っていた二人の人物、シメオンとアンナでした。


 福音記者ルカが彼らについてどんなことを言っているか、彼らのことをどのように描写しているかを観察してみましょう。おとめマリアと聖ヨセフについては、彼らは主の律法に定められていたことを行いたがっていたと四回繰り返されています(ルカ2章22節、23節、24節、27節参照)。イエスの両親は神の考えを喜んで順守していることが直観で、ほぼ手に取るように感じられます。そうです。主の律法において歩む喜びです!結婚したばかりの二人です。子どもを授かったばかりの二人です。そして定められていることを果たしたいという望みにうながされています。外面的なことではありません。決まり事を守ればいい、というものではありません。ちがいます!これは強く、深く、喜びに満ちた願望なのです。これこそ詩篇が言っているものです。「わたしは…あなたの道に目を注ぎます。わたしはあなたの掟を楽しみとし…あなたの律法はわたしの楽しみです」(119編15,16,77節)。

 では老人たちについて聖ルカはどのようなことを言っているでしょう?聖霊によって導かれていたことが強調されています。シメオンについては、彼は正しく敬虔で、イスラエルの慰めを待ち望んでおり、「聖霊が彼と共にあった」と明言されています(2章25節)。主のキリストを見るまでは死なないと「聖霊が彼に約束をしていた」と言われています(26節)。そして最終的に「聖霊によって導かれて」神殿に向かいました(27節)。それからアンナについては、彼女が「女預言者」であったこと(36節)、つまり神によって霊感を受けていたこと、神殿から離れず、「断食と祈りをもって夜も昼も神に仕えていた」ことが語られます(37節)。つまり、この二人の老人は、いのちに満ちていたのです!彼らが命に満ちていたのは、聖霊によって活力を与えられており、その働きに対して素直で、その呼びかけに対して敏感だったからです…。

 ここに、聖家族とこの神の聖なる民の二人の代表者との出会いがあります。その中心にはイエスがいます。イエスこそが全員を動かし、どちらをも自らの父の家である神殿にひきつける方なのです。

 これは主の律法を守ることで喜びに満ちた青年たちと聖霊のはたらきによる喜びに満ちた老人たちとの出会いなのです。これは、律法の遵守と預言とのまたとない出会いなのです!青年たちが決まりを守り、老人たちが預言的であるという、普通逆なんですがね、ここでは何かが違っています。実際、もしよく省察を加えると、律法の遵守は同じ聖霊によって活力を与えられ、預言は律法によって編まれた歩みにおいて動いていることが分かります。マリアほど聖霊に満ちた人はいるでしょうか?マリアほど聖霊のはたらきに素直な人がいるでしょうか?

 この福音のシーンに照らされて、奉献生活をキリストとの出会いのひとつとして見てみましょう。キリストこそがマリアとヨセフに率いられてわたしたちのもとに来てくださる方です。そしてわたしたちこそが聖霊に導かれてキリストに向かって行く者なのです。けれどその中心にはキリストがいます。キリストがすべてを動かします。わたしたちがキリストに出会い、認め、受け入れ、抱きしめることのできる神殿、つまり教会にわたしたちを引き寄せてくださるのはキリストなのです。

 イエスは教会において、修道会の創立に関わるカリスマを通してわたしたちと出会うために出てきます。わたしたちの召命においてこのように考えるのは素晴らしいことです!わたしたちのキリストとの出会いは、自らの証し人である男性、あるいは女性のカリスマを仲介にして教会においてその形を取りました。これはいつもわたしたちを驚かせ、また感謝の念を引き起こします。

 そしてまた、奉献生活においても青年たちと老人たちとの出会い、決まりの遵守と預言との出会い体験されます。このことを対立する二つの現実として見ないようにしましょう!むしろ聖霊が両者に活力を与えるように任せましょう。その時、これが実現しているというしるしは喜びに見られます。決まりを順守する喜び、生活の決まりごとの中で歩む喜びです。そして聖霊によって導かれ、けっして厳格ではなく、閉鎖的ではなく、いつも地平線に向かって行くようにと語りかけ、わたしたちに開き、わたしたちを導き、わたしたちを招く神の声に対して開かれている喜びです。

 老人にとって、青年たちに知恵を伝達することは益となりますし、青年たちにとって、この経験と知恵の遺産を受け取り、未来に向かってこれを運ぶこと、これを美術館にしまっておくのではなく、わたしたちに人生がもたらす挑戦に背を向けず、これを未来に向かって運ぶのは益になるのです。当該の修道会家族と、全教会にとっての益となるのです。

 この神秘の恵み、出会いの神秘がわたしたちを照らし、わたしたちをこの歩みの中で慰めてくださいますように。アーメン。 
(Traducción del italiano: Raúl Cabrera – RV)

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