2014年2月1日土曜日

1月31日(金)、朝ミサ説教:誘惑というのは日々の食卓に上るパンのよう=日常茶飯事。

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〔①〕サムエル下11章1-4a、5-10a、13-17節
〔福〕マルコ4章26-34節

 人々の間で神の現存があまり現れてこない時、「罪の意義を見失います」そしてこのようにしてわたしたち「キリスト者の中途半端さ」の代償を他の人々に払わせることになりかねないのです。パパ・フランシスコは、今朝の聖マルタの家でのミサ中説教でこう語った。「神の国の現存がわたしたちの間で決して弱まらないように祈りましょう」。

 たとえば姦淫のような重罪が、現代では「解決しなければならない問題」程度に軽減されている。パパは、今日の第一朗読が語っている、ダビデ王が果たす選択を、鏡とし、その前に全キリスト者の意識を据えた。ダビデは自分の軍隊の統率者ウリヤの妻、ベトシェバに対してその気になり、自分のもとに連れ込み、夫を戦闘の前線へと送り、死をもたらし、結果として殺人へと身をやつしました。しかしながら、姦淫も殺人も彼をそれほど動揺させません。「ダビデは重罪を前に立っているのですが、自らを罪びとだと感じないのです」。「ゆるしを乞おうという考えは脳裏に浮かびません。彼の頭の中を駆け巡っている考えは、『どうやってこれを解決しよう?』という問いです」。


「これは、わたしたち誰にでも起こりうることです。わたしたちは誰もが罪人ですし、誰もが誘惑にさらされています。実に誘惑というのは日々の食卓に上るパンのよう(に日常茶飯事)なのです。もしわたしたちのうちの一人が「でもわたしは誘惑を感じたことなど一度もありません」と言うならば、どちらかと言えば、天使ケルビムか、すこし脳足りんでしょう?分るでしょう…生きていれば、内なる戦いはふつうのことですし、悪魔は黙っておらず、勝機を狙っているのです。けれど問題なのは、この聖書個所で一番の問題は、誘惑や十戒の第九戒を破る罪にあるのではありません。そうではなくて、ダビデがどのようにこれに対して反応するかにあるのです。そしてここでダビデは、罪について語らず、解決しなければならない問題について語るのです。これこそがしるしです!神の支配(くに)があまり来ていない時、神の支配(くに)が小さくなる時、様々なしるしがありますがその一つが、罪の感覚を失うことなのです」。

 毎日、「主の祈り」を祈りながら、神に「み支配(くに)が来ますように」と求めているけれど、これは「あなたの支配(くに)が大きくなっていきますように」という意味です。一方、罪の感覚を失うと、「神の支配(くに)の感覚」をも失い、その代わりに、「わたしは何をしたって構わない」という「超パワフルな文化人類学的展望」が頭をもたげます。

「人間的なパワーが神の栄光に取って代わるのです!これは日々のパンのような出来事(日常茶飯事)です。だから毎日の神への祈りは、『み国が来ますように、あなたの支配が大きくなりますように』なのです。なぜなら救いというのはわたしたちのいたずらや非行、ずる賢さ、取り引きをする知能から来るものではないからです。救いは神の恵みから、そしてキリスト者としての生活の中で子の恵みを実現させようとする日々の鍛錬からもたらされるのです。

「現代の一番大きな罪は、人々が罪の感覚を失ったことにあります」。フランシスコはピオ十二世のこの有名なフレーズを引用した後で、その眼差しを、自分の王のせいで死に送られた無垢な男であるウリヤに向けた。「ウリヤは、そこでわたしたちの口にできない傲慢の犠牲者全員の紋章となります」。

「わたしは、こうした不正、人間的傲慢を見る時、またこうしたことが自分自身にも起こる危険性、罪の感覚を失う危険性を見る時、歴史のなかで多くのウリヤのような人々、わたしたちキリスト者の中途半端な生き方のせいで苦しんでいる第二、第三のウリヤがどれほどいるかを考えることは、益になる、と心から思います。わたしたちが罪の感覚を失う時、わたしたちが神の支配が弱まっているのを見過ごす時…、彼らは、わたしたちの自覚のない罪による殉教者なのです。今日、互いのために祈ることは益になるでしょう。わたしたちの間で神の支配が弱まらないために、罪の感覚を失わない恵みをいつも主がくださいますように。そして、自分は大丈夫だと思っている人々、自分は大丈夫だと思いこんでいるキリスト者の宴会の支払いをさせられている、こうした現代のウリヤたちの墓に霊的な花を携えましょう。

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