2015年1月19日月曜日

2015年1月18日(日):フィリピンにて、青年たちへのメッセージ






 118日の日曜日、サント・トマス大学で、14歳のジョン・チュラと12歳のグリゼレ・イリス・パロマールの証し、レアンドロ、リッキの話と問いを聞いた後に教皇のメッセージがありました。
 チュラは教皇に自分のホームレスの子どもとしての生活について語り、子どもへの虐待、犯罪や麻薬を解決にしてその環境に反応した人たちの現実を証言しました。
 パロマールは自分の番になって、どのようにして仲間のストリート・チルドレンが麻薬や売春に陥っているかを語り、メッセージを読んでいるときに、教皇に問いかけながら涙を流しました。「Bakit po pumapayag ang Diyos na ay ganitong nangyayari. Kahit walang kasalanan ang mga bata. At bakit kaunti lamang ang mga taong tumutulong sa amin.」(=どうして神さまはこんなことが起こることを望まれたのですか?子どもには罪はないのに。それにどうしてわたしたちを助けてくれる人がこんなにも少ないのでしょう?)

教皇のメッセージ
(英語の部分はイタリック体で表記)

 わたしが即興で話す時には、スペイン語で話します。英語を知らないからです。これでもいいですか?(人々、「はい!」と返事)どうも、ありがとう。ここに、マーク神父さんがいます。いい通訳者です(受け笑い)

 今日は、悲しいニュースがありました。ミサが始まろうとした時、足場がひとつ崩れてしまいました。崩れたうえに、そのあたりで働いていた若い女性に当たり、彼女はいのちを落としてしまいました。彼女の名前はクリスタルと言います。彼女はまさにそのミサの企画と準備のために働いていました。27歳でした。皆さんと同じように若い方です。彼女はボランティアとして、そういったカトリックの支援奉仕のために働いていました。

 わたしはみなさんに、彼女のように若い皆さんに、一分間沈黙のうちに彼女のために渡しとともに祈っていただきたいと思います。また、この祈りを天におられるわたしたちの聖母マリアに捧げましょう。(沈黙)「アヴェマリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女の中で祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されました。神の母聖マリア、罪深いわたしたちのために、今も死を迎えるときもお祈りください。アーメン。」

 また、彼女のパパとママのためにも祈りましょう。彼女は一人娘でした。彼女のお母さんは香港からこちらに向かっており、お父さんはマニラから妻を待つために来ています。「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日毎の糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください、わたしたちも人を赦します。わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい。アーメン。」

 今日の朝、みなさんと一緒に居られることをうれしく思います。皆さん一人ひとりに愛情いっぱいのあいさつをします。また、この集いを可能にしてくれたすべての人に感謝します。わたしのフィリピン訪問において、わたしは皆さん、青年たちと集うことを望んでいました。皆さんに耳を傾け、皆さんとお話をするためです。教会が皆さんに対して持っている愛と希望を皆さんに伝えたいと思います。そしてこの国のキリスト者市民である皆さんが、情熱と誠実さを持って、皆さんの社会の刷新と言う大いなる務めに献身し、よりよい世界の建設を手伝うようにと励ましたいと思います。

 特別に、わたしのところに話に来てくれた青年たちに感謝したいと思います。ジュン・チュラ、レアンドロ、リッキ、どうもありがとう。

しかし皆さんの間では、女性の代表者がとても少ないですねぇ、あまりに少ない(人々:笑い)。現代社会において、女性たちにはわたしたちに語るべきことが多くあります(拍手)。しばしばわたしたちはあまりに「マチズム(男尊女卑)」に過ぎます。(人々の笑い)そしてわたしたちは女性たちにスペースを与えていません。けれど女性たちはわたしたち男性とは異なる角度で物事を見ることができます。別の眼差しからです。女性たちは、わたしたち男性が理解できない問いを立てることができます。(人々:「イェーーー」)よき注意を払ってごらんなさい。彼女は、グリゼレは、答えのないたった一つの問いをしてくれました。そして言葉では足らず、涙をもって語らざるを得ませんでした。ですから、次の教皇がマニラに来るときには、もっと多くの女の子たち、女性たちが含まれますように(応援、大拍手)

 ジュン、実に勇気をもって自分の体験を語ってくれて、ありがとう。今さっきわたしが言ったように、あなたの質問の核には、ほぼ答えがありません。あなたが体験したことについて泣くことができるときのみ、わたしたちは何かを理解し、何か答えることができるのです。すべての人にとって大きな問いです。なぜ子供たちはそんなにも苦しまなければならないのか?なぜ子供たちは苦しむのか?

心が自分自身に問いかけ、泣くことができるときにやっと、わたしたちは何か理解することができるのです。世俗的な共感というものがありますが、それは何の役にも立ちません。君はこのことについて何か語ってくれました。(ジェスチャーとともに)わたしたちの手をポケットへと運び、そこから何かを出して、貧しい人に与えさせる共感です。キリストにそのような共感があったのなら、通りかかり、三人や四人を癒したのなら、御父へと返したのなら……。キリストは泣いたとき、泣くことができたときにのみ、彼にはわたしたちの人生ドラマを理解できたのです。

 大好きな女の子たち、男の子たち、今の世界は泣く能力にかけています。疎外された人が泣きます、脇に置き去りにされている人々が泣きます、見下されている人たちが泣きます。……けれどある程度何不自由なく生活しているわたしたちは、泣くとはどういうことか知りません。ある種の人生の現実が涙をもって清い目で見られるのみです。

 皆さん一人ひとり自問してください。「自分は泣くことを学んだだろうか?自分は空腹の子どもや、道で麻薬に使った子供、家のない子供、放置された子供、虐待を受けた子供、奴隷のように社会によって用いられた子供を見るときに泣くことを学んだだろうか? それとも自分の嘆きはもっと何か欲しいからということで泣く気ままな嘆きなのだろうか?」これが、最初に皆さんに言いたかったことです。今日彼女(グリゼレ)がわたしたちに教えてくれたように泣くことを学びましょう。

 この証しを忘れないようにしましょう。大きな問いです、なぜ子どもたちは苦しむのか?この問いを彼女は泣きながらしてくれました。わたしたち全員がすることのできる大きな答えは、泣くことを学ぶことです。イエスは、福音の中で、泣きました。死んだ友のために泣きました。娘を亡くした家族のために心の中で泣きました。貧しいやもめが息子を埋葬するために運んでいるのを見て心の中で泣きました。牧者のいない羊のような大衆を見たときに、心動かされ心の中で泣きました。もし君が泣くことを学ばないなら、よいキリスト者ではありません!

 そしてこれは挑戦です。ジュン・チュラとその仲間(グリゼレ)は今日語ってくれましたが、この挑戦をわたしたちに突きつけています。「なぜ子供たちは苦しむのか、どうして生きていると悲劇的なこんなことやあんなことがあるのか?」という問いをわたしたちにするとき、わたしたちの答えは沈黙か、涙から生まれる言葉でしょう。勇気をもちなさい。泣くことを恐れてはなりません。

 その後で二つ目の問いが来ました。レアンドロ・サントスが来てくれました。彼も問いをしてくれました。情報世界のことです。今日、実に多くのメディアがあり、情報を受けています。過剰に情報が入ります。これは悪いことでしょうか?いいえ!よいことだし、助けになります。けれど情報をため込んで生きる危険に陥ります。たくさんの情報を手にしながらも、多分これをどうしていいかわからないかもしれません。あらゆるものを持っているけれど、何をしたらいいかわからない「美術館青年」になってしまう危険性があるのです。わたしたちには美術館青年はいらず、知恵ある青年が必要なのです。

 すると、こう質問してくるかもしれません。「神父さん、どうすれば知恵ある人になれますか?」これはまた別の挑戦です。愛の挑戦です。大学で学ばなければならない一番大切な科目は何ですか?生活の中で学ばなければならない一番重要な科目は何ですか?それは愛することを学ぶことです。これが今日、人生が君に突きつける挑戦です。愛することを学びなさい。美術館のように情報をため込むだけではだめです。なぜならこれをどうしていいかわからなくなる時があるからです。それでは美術館です。そうではなく、愛を通れば、そうした情報は実りをもたらすものとなるでしょう。

 このために福音書は静かで、落ち着いた道をわたしたちに提案しています。三つの言語があります。思考の言語、心の言語、そして手の言語です。そして三つの言語とも調和させて用いることです。あなたが考え、感じ、実現すること。あなたの情報が心まで届き、心を動かし、これを実現させる。そしてこれが調和のうちになされる。感じることと行うことを考え、考えることと行うことを感じ、考えることと感じることを行う。三つの言語です。この三つの言語を繰り返してみようと思いますか?どうですか?考えること、感じること、行うこと、大きい声で!(英語で三回繰り返す)そしてすべてを調和のうちに。


 本当の愛は、愛し愛されるに任せることです。愛することよりも愛されるに任せることの方が難しいです。だからこそ神の完璧な愛に到達することが困難なのです。なぜならわたしたちは神を愛することはできるけれど、大切なのは神の自分に対する愛しかたを受け入れることだからです。ほんとうの愛はまず最初にあり、わたしたちに驚きを引き起こすその愛に対して開かれることなのです。

 もし君にあらゆる情報があるだけなら、あなたは驚きに対して閉ざされています。愛はあなたを驚きに対して開かせます。愛はいつも驚きです。なぜなら二人の間での対話であると考えられるからです。愛する人と愛される人の間での対話です。わたしたちは神について、驚きの神であると言うことができます。なぜならいつでも神がわたしたちよりも先に愛した人であり、驚きをもってわたしたちを待っているからです。神はわたしたちを驚かせます。神によって驚かされるに任せましょう。そして何でも知ることができると信じコム「コンピューターの心理学」を持たないようにしましょう。何と言いますか?ちょっと待ってくださいね。(教皇、コンピューターを英語で何というか質問する)コンピューター、あらゆる答えを持っているとして、驚きが何一つない。

 愛の挑戦において、神は驚きとともに自らを示します。聖マタイのことを考えてみましょう。そうです、彼はやり手の商人でした。しかも自分の国を裏切っていました。なぜならユダヤ人からローマに支払うための税金を取り立てていたからです。お金にまみれ、税金を取り立てていました。イエスが通りかかり、マタイを見つめこう言います。「来て、わたしに従いなさい」。マタイには信じられませんでした。もしあとで時間があったら、カバラッジョが描いたこのシーンの絵を見に行ってください。イエスがマタイを呼び、こうやって(指さすジェスチャー付)、他の人たちが(もう一つのジェスチャー)「こいつを?裏切り者の、厚かましいこの男を?」と言うかのように指さします。そしてマタイは金をつかみ、手放そうとしません。けれど、愛されることの驚きがこれに勝ります。そうしてイエスについていきます。

 その日の朝、マタイは仕事に行くために妻と分かれる際に、まさかお金を持たずに大急ぎで帰ってきて、急いで宴会を準備するように言いつけるとは思いもよらなかったでしょう。まず愛してくれた人のための宴会です。なにかとても大切なこと、持ち金全部よりも大切な何かをもって驚かせてくれた方のための宴会です。

 神によって驚かされなさい。驚きに対して恐れてはなりません。床が揺れるようでしょう? わたしたちは不安定になります、けれど歩み出させます。本物の愛はあなたのいのちを燃やすように促します。たとえ手の中が空っぽになってしまう危険にさらされても。

 聖フランシスコのことを考えましょう。すべてを手放しました。空の手で、けれど満ち足りた心で死にました。いいですか? 美術館青年ではなく、知恵ある青年! 知恵ある人になるための、三つの言語、よく考えること、よく感じること、よく行うこと! 知恵ある人になるために、神の愛によって驚かされるに任せることです。そして行き、いのちを燃やしなさい。今日のあなたの指摘、ありがとう。


 人生をどう歩んでいくかをわたしたちが見ることができるためのよい計画を持ってきてくれたのは、リッキです。わたしたちの活動のすべて、わたしたちがするべきこと、青年たちがすること、わたしたちにできること、すべてをリッキは話してくれました。ありがとう、リッキ。あなたやその仲間たちがしていることに感謝します。けれど、わたしは君に一つの質問をしたい。君とその友達は与えます。与え、与え、助けます。けれど、君は人が与えることを受け入れますか?(言いたいですか?というジェスチャー)リッキ、心の中で答えてください。

 ついさっき聞いた福音の中で、わたしにとって一番大事なフレーズがあります。福音は、イエスがその青年を見たと言っています。そして愛した、と。誰かがリッキの仲間たちのグループを見たら、その人はみんなのことを大好きになるでしょう。とても良いことをしていますから。けれどイエスが言っていることで一番重要なフレーズは、「あなたに欠けていることが一つある」です。それぞれこのイエスの言葉に耳を傾けましょう。沈黙のうちに。「あなたに欠けていることがたった一つある」。何がわたしに欠けているのだろう?他の人たちにたくさん与えるということで、イエスがとても愛していることを体験している皆さん、あなたたちに尋ねます。皆さんは、あなたたちが持っていないその別の富を他の人たちがくれるとき、それを甘んじて受けていますか?

 イエスの時代のサドカイ派の人たちや律法学者たちは民に多くのものを与えていました。法を授け、教えを授けていました。けれど民が自分たちになにかをくれるということには一度も開かれませんでした。イエスが来て、民によって心動かされるに任せる、ということをしなければなりませんでした。あなたたちのことを言っているわけではありませんが、どれほど多くの青年たちが、ここにいるあなたたちのように人に何かを与えることはできるけれど、まだ受けることを学んでいないことか! あなたに欠けていることがたった一つある。乞食になること、乞食になることです。これがあなたたちに欠けているのです。わたしたちが与えている人たちに物乞いをするのです。これは容易には理解できないものです。物乞いをすることを学ぶ。

 助けている相手の乏しい状態からもらうことを学ぶことです。貧しい人たちから福音を伝えてもらうことを学ぶことです。わたしたちが助けている相手には、貧しい人や、病人、孤児などがいますが、彼らにはわたしたちに多くを与えるものがあります。自分は乞食になり、またそうなれるように願っているだろうか? それとも自分は満足しており、与えるだけなのだろうか? いつも与えて生活していて、なんの必要もないと感じている君、自分が哀れな奴であることを知っていますか? 自分には貧しさがあり、与えてもらう必要があることを知っていますか? 貧しい人たちや病人、援助している相手から福音を伝えてもらうに任せていますか?

 この姿勢は、リッキのように他の人たちに与える仕事に献身しているすべての人が成熟するのを助けます。自分の悲惨な状態から手を伸ばすことを学ぶことです。

 他に準備していた点がいくつかありました。最初は、もう言ったことですが愛することを学び、愛されるに任せることを学ぶことですね。ほかにも挑戦があります。それは統合性のための挑戦です。

 これは皆さんの国が他の国より気候の変化によって左右されやすいからだ、ということではありません。環境に関わる挑戦が存在します。そして、最終的に、貧しい人たちの挑戦です。

 貧しい人たちを愛すること。司教のみなさんは、あなたたちが今年特別な仕方で貧しい人たちにまなざしを向けるようにと望んでいます。あなたは貧しい人たちの間で考えますか? 貧しい人たちと共に考えますか? 貧しい人たちが持っているその知恵を求めていますか? これが今日わたしが皆さんに言いたかったことです。準備してきたものをほとんど読まなかったことを赦してください。けれど、わたしをほんのちょっと慰めるフレーズがあります。「現実は概念よりも上位である」。彼らが持ち出してきた現実、皆さんの現実は、わたしが準備してきたどの概念よりも上位にあります。ありがとう、どうもありがとう、わたしのために祈ってください(拍手)。

0 件のコメント:

コメントを投稿