2013年12月5日木曜日

パパ・フランシスコ 使徒的勧告『福音の喜び』 導入および一章

とりあえず、自分なりのスペイン語からの翻訳で、導入と第一章の翻訳を終えました。
待降節の良い黙想と今後の活動指針の助けになると思います。読んでいただければ幸いです。

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2013年12月4日水曜日

12月3日(火)、朝ミサ説教:教会は喜ばしい、希望のうちに


 教会はイエスのようにいつも楽しくなければならない。パパ・フランシスコは聖マルタの家での火曜日のミサでこう語った。教皇は、教会がその子らに主の喜びを伝達するように呼ばれていることを強調した。ほんものの平和を与える喜びを。

 平和と喜び。パパ・フランシスコはこの二つのことばに留まってその説教を進めた。イザヤ書からとられた第一朗読において、すべての人が抱く平和への望みに気づく。イザヤが言うには、わたしたちをメシアのもとに連れて行く平和である。福音では一方、「少しイエスの魂、イエスの心、つまり楽しんでいる心を感じ取ることができます」。

 「いつも説教をしていたり、癒していたり、歩いていたり、道という道を進んでいたり、それから最後の晩餐の席にいたり、そういったことを考えます。・・・けれど微笑んでいるイエスや、楽しそうなイエスを想像するのにはあまりなれていません。イエスは喜びに満ちていました。喜びいっぱいだったのです。その父とのあのしたしさの中で「聖霊の中で喜びにうち震え、父を賛美した」のです。それはまさにイエスの内側にある神秘です。聖霊のなかでの父とノアの関係です。それはイエスの内側の喜びです。主がわたしたちに下さるその内なる喜びです」。

 「そしてこの喜びこそ、ほんものの平和なのです。静的な、静かな、落ち着いた平和ではありません」と見解を述べた。違うのです。 「キリスト者の平和は喜ばしい平和なのです。なぜならわたしたちの主が楽しい人だからです」。そしてまた、「父について語る時」も楽しんでいる。「父のことをあまりに愛していて、喜びなくして父について語ることはできないのです」。わたしたちの神は、「楽しいのです」と念を押した。そしてイエスは「その妻である教会も、喜ばしいものであるようにと望みました」。

 「喜びのない教会を考えることはできません。そして教会の喜びはまさに次のこと、つまりイエスの名を告げ知らせることなのです。「イエスは主です。わたしの夫は主です。イエスは神です。イエスはわたしたちを救います。イエスはわたしたちと共に歩きます」と口にすることです。そしてそれこそが教会の喜びなのです。この妻としての喜びから母になっていくのです。パウロ六世は言っていました。『教会の喜びはまさに福音を広めることにあります。前進し、その夫について語ることです。そしてまたこの喜びを教会が生み出し、育てていく子どもたちに伝えることです』」。

 そして付けくわえた。こうして観想するには、イザヤがわたしたちに語っている平和は「よく動く平和です。喜びの平和です。賛美の平和です」。「賛美において騒がしい」とも言えるであろう平和で、「新しい子どもたちに対する母性において多産の平和なのです」。フランシスコは強調して言った。「まさに三位一体への賛美と福音を広めること、イエスとは誰かを人々のところに言って語る喜びから訪れる平和なのです」。「平和と喜び」これを教皇は際立たせた。そしてイエスが言ったことについて「父よ、あなたはこのように定められました。知恵あるものではなく小さい者たちにご自身をお示しになられることを」と明言する時に「それは教義的な宣言なのです」と主張した。

 「また、こうしたとても真面目な物事においても、イエスは喜びに満ちています。教会は喜ばしいのです。喜ばしくなくてはならないのです。そのやもめの状態においても、というのは教会はある部分やもめなのです。その夫が帰ってくるのを待っている、夫のいないような状態です。そのやもめの状態にあっても、教会は希望のうちに喜ばしいものなのです。主がわたしたち全員にこの喜び、イエスのこの聖霊のうちに父を賛美する喜びを下さいますように。この福音を広め、その夫について告げ知らせるわたしたちの母なる教会の喜びを」。

(Traducción del italiano: Raúl Cabrera- Radio Vaticano)

2013年12月3日火曜日

教皇の使徒的勧告『福音の喜び』

今日は、10項目ぐらい進めました。
全220項目中、33項まで日本語で読めるようになっています。
10分の一以上ですね。
特に27項から33項までは、
パパ様のわたしたち一人一人に対する
本気の呼びかけです。
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12月2日(月)、朝ミサ説教:この歩みの中でイエスに見出してもらうこと


 祈りと愛徳と賛美をもって降誕祭の準備をすること:すべてを新たにしてくださる主に見いだしてもらう開かれた心をもって。これがこの待降節第一月曜日に聖マルタの家で捧げられたミサの中でパパ・フランシスコによってなされた招きである。

 ローマ人の百人隊長が大いなる信仰をもってその部下の癒しをイエスに願う、この日の福音個所についてコメントをしながら、ローマ司教はここ数日「新しい歩みをわたしたちは始めています」と思い出させた。「教会の…降誕にむかう…歩み」である。「主との出会いを求めていきましょう。なぜなら降誕祭はこの季節の記念日や素敵なことの思い出だけではないからです。

 「降誕祭は何かもっと素晴らしいことです。わたしたちはこの道をとお手主との出会いに向かうのです。降誕はひとつの出会いです。ですから主に出会うために歩みましょう。心をこめて、行き方をもって主に出会いましょう。主は生きているのですから、生きた主に出会いましょう。信仰をもって主に出会うのです。そして信仰をもって生きるのは簡単なことではありません。先ほど聞いたみ言葉では、主はこの百人隊長に感嘆しました。彼が持っていた信仰に感嘆したのです。主に出会うために歩み始めたのですが、これを信仰をもって成したのです。だから百人隊長は主に出会っただけではなく、主に見いだしてもらった喜びの意味にも出会ったのです。そしてこれこそが、まさにわたしたちが望んでいる出会いなのです。信仰の出会いです!

 そしてわたしたちが主を見出すことよりも、「主によって見出してもらう」ことの方が大切なのです。こう教皇は強調した。

 「わたしたちだけが主を見出す時、括弧つきで言いますが、わたしたちがこの出会いの主人になります。けれど主によって見出してもらう時、主がわたしたちの間に入って来ます。イエスこそがすべてを新たにするのです。なぜならこれこそが到来だからです。キリストが来た時を意味するというあの到来なのです。すべてを新たにすること、心、魂、いのち、希望、歩みすべてを新たにすること。わたしたちは信仰の歩みのうちにいます。この百人隊長の信仰をもって、主に出会うために、そして基本的に主に見いだしてもらうために。

 しかし開かれた心が必要である:

 「開かれた心、イエスがわたしを見出すために!そして必ずしもわたしが自分に言ってほしいことを言うとは限らない内容、つまりわたしにおっしゃりたいことを言ってもらうために!イエスは主なのです。そしてイエスはわたしに準備されていることを言ってくださるでしょう。なぜなら主は全員を一つの集団としてまとめてはみませんから。違います、違うのです。わたしたち一人一人の顔を見、目を見るのです。なぜなら愛というのは何かこう、抽象的なものではないからです。愛は具体的です!人から人に伝えられるのです。主は、人であり、わたしという人を満ち眼ます。主に見いだしてもらうということは、まさにこのことです。主に愛されるに任せること」。

 この降誕への歩みにおいて、いくつかの態度が助けになります。「祈りにおける持続性、もっと祈ること、兄弟愛における努力、窮乏にある人にもっと近づくこと、そして主の賛美の内なる喜びです」。そういうわけで:「祈り、愛徳と賛美」を、開かれた心をもって行いましょう。そうして主がわたしたちを見出してくださるように」。 
(Traducción del italiano: Raúl Cabrera-Radio Vaticano)

12月1日(日)、司牧訪問:利己主義から遠く離れ、イエスを見、その愛をもってイエスがわたしたちを見てくださるように。


 熱意いっぱいの午後、ローマ郊外の、ローマ司教の訪問を受けたアレキサンドロのチリロ教会にて。フランシスコはその説教の中で誰かに起こりえる最も美しいことは、わたしたちを愛し、わたしたちを救ってくださり、わたしたちのために命をささげてくれたイエスに出会うことです。わたしたちの全生活はイエスに出会うための道です。そしてもし利己主義ではないなら、祈りにおいて、秘跡において毎日イエスに出会うことができます。教皇になって二度目の司牧訪問で、待降節第一主日の午後に、病人のグループ、この一年の間に洗礼を受けた人たちと会見し、何人かのゆるしの秘跡を行い、その後でミサをささげ、9人の子供たちに堅信の秘跡を授けた。

 教皇は秘跡とミサ、イエスと出会うためにわたしたちの生活の中でしていることの大切さを思い返した。

 「良いことをするとき、病人を尋ねる時、貧しい人を助ける時、他の人々のことを考える時、利己的ではない時、やさしい時・・・こうしたことの中で、いつもイエスと出会います」。

 改めて、パパはわたしたちに自分の弱さでがっかりせず、イエスの癒しに満ちたあわれみに信頼するようにと招いた。

 「でもあなたはイエスが一番会いたがっていた人たちは、一番罪深い人だったことを知っているでしょう。だから自分は正しいと思っていた人たちはイエスのことを咎め、人々はこう言っていました。『あぁでも、この人は本物の預言者じゃぁない!ほら、こんな奴らが仲間だよ!この人は罪びとたちと一緒にいたよ…』。そこでイエスは言ったものです。『わたしは健康を必要としている人たち、癒しを必要としている人たちのために来たんです』。そしてイエスはわたしたちの罪をいやしてくれるのです。勇気のある人でいなさい!恐れてはなりません。いのちはこの道です。そして最も美しいプレゼントはイエスに出会うことです。前進しなさい、そして元気よく!」

 この司牧訪問の最後に、家庭的な雰囲気の中で、パパは受けた愛情に心から感謝し、自分のために祈るように求め、もし準備体制にやり過ぎがあったら許してくれるようにと求めた。彼の次の言葉は大いなる拍手をもって受け入れられた。

 「一緒に作って来たこの歩みの一部に感謝します、どうもありがとう!皆さんの歓迎、そのやさしさ、その喜びに、ありがとう。皆さん、わたしのために祈ってくださいね、必要としていますから。そしてもしこの訪問の準備体制で何か皆さんを不愉快にさせることがあったら、多分セキュリティのやり過ぎか恐れ課によるのですが、ゆるして下さい。わたしはそういうことには納得していない、ということを覚えていてください。わたしは皆さんと共にいます」。 
(CdM - RV)

2013年12月2日月曜日

12月1日(日)、お告げの祈り:待降節は、神の言葉に基づいているから決してわたしたちをがっかりさせない希望の地平をわたしたちに返してくれる。


 典型的な冬のサン・ピエトロ広場で、何千もの信者たちと様々な国からの巡礼者たちを前に、パパ・フランシスコは待降節第一主日のお告げの祈りをした。教皇は、み国の完成に向かう歴史の中でイエス・キリストがわたしたちを導く、神の民にとっての典礼歴年の信念をこのように始めるのだと説明した。そしてこのことは歴史の意義の深い感情をわたしたちに体験させること、それはすべての人々が歩みの中にいるようにする美しさを再発見するからであるのだと付け加えた。その召命と使命を伴う教会、人類全体、国々、都市、文化、時の様々な小見戸を通ってくる道にあるすべての物は。

 ローマ司教は一つの共通の目標に向かう普遍的な巡礼について言っていると説明した。旧約聖書では、主の神殿がたつエルサレム である。なぜならそこから神とその律法の顔の啓示が訪れたからである。そのように、わたしたち一人ひとりの人生におけると同じように、出発し、もう一度立ち上がり、自分の存在目標の意義を見出し直す必要性がいつでもある。それは大きな人類家族にとってわたしたちが歩み向かっている共通の地平をいつでも刷新する必要があるのと同様である。希望の地平!なぜなら新たに始めている待降節は希望の地平をわたしたちに取り戻すからである。神の言葉に基づいているのでがっかりさせない希望である。

 神の母に向かって祈る前に、教皇はこのあり方と人生における歩み方の模範はおとめマリアであることを思い返した。神の希望すべてをその心に抱き運ぶ、民の質素な女の子である。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

11月29日(金)、朝ミサ説教:「歴史の中で神さまの通り道」を理解するために「キリスト者のことを考える」


 「時のしるしをよく理解するために聖霊がわたしたちに下さる能力、今日主に求めなければならない恵みはこれです」。キリスト者は神に従って考えます。そしてそのため弱く画一的な考えを拒みます、とパパ・フランシスコはこの金曜日の聖マルタの家でのミサの中で強調した。そして時のしるしを理解するためには、キリスト者は頭だけではなく、心を使い、聖霊と共に理解しなければならない、と説明した。

 その日の福音について回想をしながら、教皇は主はその弟子たちに時のしるし、ファリサイ派の人々には理解ができないしるしを理解するようにと教えていることを指摘した。「歴史における神さまの通り道」を理解するために、「キリスト者のことを考える」べきである。「福音において、イエスは怒りませんが、弟子たちが物事を理解しないとそう見せかけます。エマオの弟子たちに、「頭が悪く、心の鈍い者たち」と言います。「あぁ、なんと頭が悪く、心の鈍い者たちよ!…神さまのものごとが分らない人というのは、そういう日音です。主は何が起こっているかをわたしたちが理解することを求めています。何が自分の心に起こっているのか。何が自分の人生に起こっているのか。世界に何が起こっているのか。歴史に何が起こっているのか。今起こっていることことは何を意味するのか?こうしたことが時のしるしなのです!一方、世俗の精神は別の提案をします。なぜなら世俗の精神はわたしたちが民であることを求めないからです。世俗の精神はわたしたちが考えもなく自由もない大衆となることを求めるのです」。

 ローマ司教は繰り返した。「世俗の精神はわたしたちが画一性の道を行くように望みます」聖パウロが忠告しているように「世俗の精神は、わたしたちが自分で物事を考えられないかのようにわたしたちを扱います。自由ではない人としてわたしたちを扱います」。

 「画一的な考え、みな同じ考え、弱い考え、どこにでも広まっている考え。世俗の精神は神の前でわたしたちが『でも、これはなぜ、あれはなぜ、なぜこんなことが起こるのでしょう?』と問いかけるのを望みません。さらには『その気になったら考える』というようにわたしたちの好みに合わせたプレタポルテ(既成服)の考えを提示します。これが自分らにはいいんだ、と言っています。けれど世俗の精神はイエスがわたしたちに求めているものを望みません。自由な考え、神の民の一部を成す一男子、一女子としての考えを。そして救いというのは本当はここにあるのです!預言者たちについて考えてごらんなさい。『お前はわたしの民ではないが、今はあなたに言おう「わが民よ」と。こう主は言われる』。そしてこれこそが救いなのです。民になること、神のためになること、自由を得るために」。

 イエスはわたしたちに自由に考えるように求めます。何が起こっているのかを理解するために考えるようにとわたしたちに求めます。実際はわたしたちだけはできません。時のしるしを理解するためには主の助けが必要なのです。そして聖霊がこのプレゼント、このような賜物をくれます。他の人が自分に何が起こっているかを語っているからではなく、自分で理解するための知能を下さるのです。

 「主が望む道はどれでしょう? いつも時のしるしを理解するための知能の精神をもって。主イエスにこの恵みを求めるのは美しいことです。主がわたしたちに理解の精神を送り、弱い考え、画一的な考え、自分の好みに基づいた考えではなく、神が望むような考えをもつことができますように、と。この頭と心と魂を使う考えをもって、聖霊の賜物であるこの考えをもって、物事が何を言わんとしているのかを求め、時のしるしをよく理解できるように」。
(CdM - ER -RV)