いつくしみの特別聖年開始
無原罪のマリアの祭日ミサ説教
いつくしみの聖なる扉を開く喜びが近づいています。バンギがそうしたように(訳者註:中央アフリカ共和国の首都。11月末に教皇はバンギでムスリム共同体と共に対話と祈りの場に与かってきたところ)、今聞いたばかりの、何よりも恵みを優先させるみことばに照らされ、シンプルでありながら同時に強烈に象徴的な、この行為をわたしたちは果たします。実際、こうした朗読で、天使ガブリエルが驚き困惑している若い女の子に声をかけた情景をほうふつさせる表現がしばしば繰り返されており、そこでは彼女を神秘に巻き込んでいることが指摘されます。「喜びなさい、恵みに満ちた方(新共同訳:おめでとう、恵まれた方)」と(ルカ1章28節)。
おとめマリアはまず、主が彼女に行ったすべての事を喜ぶようにと招かれています。神の恵みが彼女を包み込み、救い主キリストの母となる尊厳のある者とするのです。ガブリエルが彼女の家に入るとき、最も奥行きのある神秘も入り、理性の能力をずっと超えて、彼女を喜びのきっかけ、信仰のきっかけ、啓示されるみことばを前に自己放棄をするきっかけとするのです。恵みの道あふれた状態が心に変化をもたらし、その心が人類の歴史を変えることになるほど大いなるその行為を実現できるようにするのです。
無原罪の宿りの祭日は、神の愛の偉大さを表現しています。神は罪を許すだけではなく、マリアにおいて、人が誰でもこの世にくるときに自らの内に持ってきている原初の咎を予防するに至ります。これは予防し、先行し、救う神の愛です。エデンの園での罪の歴史の始まりは、救いをもたらす愛の計画と落ち合います。創世記の言葉はわたしたちの個人的・人格的存在の日々の経験に向けられています。いつでも不従順の誘惑は存在し、それは自分の生活を神のみ旨をわきに追いやって組み立てたいという望みに示されます。これこそが神のデザインに反するためにたゆまなく人々の生活にわなを掛ける敵意なのです。それにしても、罪の歴史も赦しをもたらす愛に照らしてのみ理解されるものです。罪とは何かということはこの光をもってのみ理解されるのです。もしすべての人が罪に寄せられたままなら、全被造物の中でわたしたちは最も絶望的ですが、キリストの愛の勝利の約束は御父のいつくしみのうちにすべての人を含みこんでいるのです。先ほど耳を傾けた神のことばは、この提案に疑いの余地を残しません。無原罪のおとめはわたしたちに、この約束とその成就の証しをする特権を与えてくれているのです。
この特別聖年はまた、恵みの賜物でもあります。扉を通って入るとは、すべての人々を迎え入れ、一人ひとりと出会うために個人的に出向いて行く御父のいつくしみの奥行きの深さを見いだすことを意味しています。わたしたちを探すのは御父なのです。わたしたちとの出会いのために出向いて行くのは御父なのです。この年は慈しみの確信のうちに成長するための年となるでしょう。神のいつくしみによって数ある罪が赦されるということを取り上げる代わりに、神の裁きによって罰せられるということを何よりも強調するとき、神やその恵みをどれほど傷付けることでしょう(聖アウグスティヌス。De praedestinatione sanctorum 12,24)。そうです、まさにそうなのです。裁きよりも前にいつくしみを据えなければならないのです。そしてどのような問題においても、神の裁きはいつでもその慈しみに照らして存在するのです。そのようなわけで、聖なる扉を通ることは、わたしたちがこの愛の神秘に与かっている者であることを感じさせてくれます。あらゆるタイプの恐れや不安を手放しましょう。なぜなら、それは愛されているものに伴うものではないからです。むしろ、あらゆることに変化をもたらす恵みとの出会いの喜びを体験しましょう。
今日、ここローマと世界の教区すべてにおいて、聖なる扉を通りながら、50年前に第二バチカン公会議の教父たちが世界に向けて開いたもう一つの扉のことをも思い出したいと思います。この日付は、信仰において実現した大いなる進展を今に至ってなお確証させてくれる、そこで生み出された公会議文書の豊かさによってのみ記念されるものであってはなりません。何よりもまず、公会議は出会いの場だったのです。教会と現代人とのほんものの出会いだったのです。宣教者の歩みをやる気を出して再開するために、自分の内側に長い年月のあいだ閉じこもっていた少し深い水から教会が出てくるようにと促していた聖霊の力に刻まれた出会いだったのです。自分の町や家の中、仕事の現場といった、一人ひとりの人が生きているその場所での出会いへと出向いて行く歩みを再開するものだったのです。誰か人がいるところならどこでも、教会は福音の喜びを運び、神のいつくしみやゆるしを運びに行くように招かれているのです。そのようなわけで、宣教者の中にある促しを、この数十年を経た後で、同じ力と同じやる気をもってわたしたちは再選択し続けるのです。ジュビリーの年は、この開かれた態度へとわたしたちを駆り立て、福者パウロ六世が公会議の締めくくりに思い出させたような、バチカン公会議の中で生じた精神、つまりサマリア人の聖心をないがしろにしないようにとわたしたちに強く命じます。今日聖なる扉を通るにあたり、よきサマリア人のいつくしみをわたしたちのものとする約束に対して献身することができますように。