2014年6月20日金曜日

6月9日(月)、朝ミサ説教:イエスがわたしたちに教える真福八端はキリスト者にとっての運転免許証



 聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教で、教皇はイエスが真福八端においてわたしたちに教えること、空腹な者に食べさせ、のどの渇いている人に飲ませるということを強調した。この月曜日は、バチカンの庭園で祝われた「平和のための呼びかけ」という歴史的な発意の翌日である。そこで、「世間で習慣的に行われる」ことの流れに逆らっていく、いのちのプログラム、キリスト者のアイデンティティをイエスが指摘していることを示しながら。貧しい人々は幸福、幸いである。いま一度、パパは心が満たされていると、あまりに満足すぎて神のことばのための場がもはやなくなることを思い出させた。泣く人は幸い、慰められるから。

「けれど世間はわたしたちに言います。喜びとか、幸福、娯楽、それこそが生きていて素敵なことだ、と。そして家族に病気の問題や痛みの問題があるとき、無視し、そっぽを向くのです。世間は泣きたがらず、痛みのある状況を無視し、これを覆い隠すことを好むのです。物事をあるがままに見、その心で泣く人だけが幸せなのです。なぜなら慰められるからです。イエスの慰めであって、世の慰めではありません。最初から戦争の世、あらゆるところで 喧嘩が起こり、あらゆるところに憎しみのあるこの世界で柔和な人々は幸いです。そしてイエスは言います。戦争はいらない。憎しみはいらない。平和と柔和が必要なのだ、と」。

 もし自分が人生において柔和であるなら、人々は自分のことを愚かだと思うでしょう。思いたいように思わせておけばいいのです。柔和な人は血を受け継ぐのです。正義に関する飢えと渇きのある人は幸いです。なぜなら満たされるからです。不正が、本当に多くの不正があります。それは汚職の産物です。それは汚職の親友、何にもまして取引を優先させる政治の親友なのです。そしてイエスはこうした不正に対抗する人々は幸いであると思い起こさせるのです。あわれみ深い人々は幸いです。他の人々の過ちに理解を示す人々のことです。イエスは復讐する人が幸せだとはわたしたちには言いません。

「ゆるす人、あわれみ深い人たちは幸いです。なぜならわたしたちは皆、ゆるされたものの軍団だからです!そのためそのゆるしの道を行く人は幸いなのです。清く、シンプルな心、悪いなく清い心、それほどまで美しいその清さをもって愛することのできる心を持った人々は幸いです。平和のために働く人々は幸いである。それにしてもわたしたちの間で、戦争のために働く人々、あるいは少なくとも勘違いのために働く人々はあまりに普通になっています!このことで何か聞いたら、自分は出かけ、尾ひれのついた形でこれを言う…。噂話の世界です。こうしたうわさ好きの人々は平和のために働きません。平和の敵なのです。彼らは幸いな人ではないのです」。

 イエスは真福八端をわたしたちに示し、またわたしたちに他の指示も与えます。それは福音書の25章に見出すものです。「わたしがおなかがすいていた時、あなたたちはわたしに食べさせてくれた。のどが渇いていた時に、飲ませてくれた。とおりすがったとき、私を止めてくれた。裸の時、わたしに着せてくれた。病気の時、わたしを訪れてくれた。刑務所に捕えられていた時、わたしを見に来てくれた」。

「言葉数を少なくし、シンプルだけれどすべての人に実践的な言葉を。なぜならキリスト教は実践的な宗教だからです。言葉について考えるためではなく、実践するための宗教なのです。今日、もし家で少し時間があるなら、福音書を手にし、マタイ福音書を開き、こうした真福八端の冒頭である第五章ともう一つ第25章を開いてみてください。これを、一回、二回、三回、と読むことは皆さんの益になるでしょう。主がわたしたちにこの主のメッセージを理解する恵みをくださいますように!」

(CdM - RV)

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