2014年6月23日月曜日

6月12日(木)、朝ミサ説教:イエスはわたしたちに憎しみにブレーキをかけるよう意見を合わせるように勇気を求めている


 イエスはわたしたちの間での対立を乗り越えるための三つの基準を与えます。現実主義、言行一致、神の子であることです。聖マルタの家の小聖堂の今朝のミサで、パパ・フランシスコはこう語った。その中心には、イエスは弟子たちに教えていた兄弟愛がすえられた。「イエスにとって、わたしたちの間での愛はどうなければならないのでしょうか?」パパ・フランシスコは兄弟愛について主と弟子たちの間でなされた対話について語る今日の福音の箇所を中心にその説教を進めた。「イエスは、隣人を愛さなければならないけれど、言行が一致しておらず、イデオロギー主義者であった、多くのアイデアでものごとをあいまいにしていたファリサイ人のようにではなく愛さなければならない、とわたしたちに語りました。その態度は、「愛ではありませんでした」。それは「隣人に対する無関心」でした。イエスは、「三つの判断基準を与えます」。

「まず、現実主義という判断基準です。健康的な現実主義です。もしあなたに何らかの無関心があるなら、他の人に対立する何かがあってどうにも整えたり、解決を見つけたりできない時、少なくとも、協定を結んでください。まだ歩みを続けている間に、対立している相手と協定してください。理想的なことではないかもしれないけれど、協定を結ぶことはすでによいことです。これが〈現実的である〉ことです」。

 「協定する努力」など、「あまりに俗っぽいことだ」と考える人もいます。けれど実際、色々なことを乗り切るには、「協定を結ばなければならないのです。一方が一歩進み、相手方がもう一歩進み、そうやって少なくとも一種の平和があるのです。その場しのぎの平和かもしれませんが、協定のもとにある平和です」。イエスは、次のようにも言っています。「わたしたちの間で、協定を結び、ファリサイ人や律法学者やこうした人々の言う正義の基準を乗り越える能力」を身につけましょう。「人間的状況で、歩んでいるうちに、協定を結ぶような状況はたくさんあります」。「そうして憎しみやわたしたちの間でのいさかいにブレーキをかけるのです」。

 イエスがわたしたちに与える二つ目の判断基準は、「心理の判断基準です」。「人の後ろで陰口をたたくことは、人を殺すことです。なぜならその根底には同じ憎しみがあるからです」。「別の仕方で殺すのです。悪口や、誹謗、中傷で殺すのです」。そしてイエスはわたしたちに忠告しています。「人のことを『バカ』と言う人は、兄弟を殺しているのだ。その根っこには憎しみがあるからだ」と。

「そして今日、兄弟を殺害しないことがその人を殺さないことだと考えますが、そうではないのです。その人を殺さないということは、その人を侮辱しないことなのです。侮辱は犯罪と同じ根から来ています。同じ根なのです。憎しみです。もし憎まないなら、あなたは敵対者も、兄弟も殺しません。だから侮辱もしてはなりません。けれど侮辱しようとすることは、わたしたちのあいだでとても普通のことになっています。他の人に対する憎しみを表現するために、侮辱の言葉を作る能力にたけている人がいます。侮辱の花束とでも言いましょうか、それにしてもすごい才能です!けれどそれは痛いものです。言い争うこと。侮辱すること…。だめです。現実的でありましょう。現実主義の判断基準。言行一致の判断基準。殺さないこと、侮辱しないこと」。

 イエスがわたしたちに向ける三つめの判断基準は、「神の子であるという判断基準」です。「もしあなたが、もしわたしたちが、兄弟を殺さないなら、それはその兄弟とともに、同じ父を持っているからです。わたしは自分の兄弟との平和のうちにいないなら父のいるところには行けません」。「あなたの兄弟と平和のうちにいないなら、少なくとも協定を結んでいないなら、父と語るものではありません」。

「兄弟と平和のうちにいることなしに父と語らないこと。現実主義であるという判断基準、言行一致、つまり殺さず、しかし侮辱もせずにいること。なぜなら人を侮辱する人は、殺し、殺害するからです。そして神の子であるという判断基準です。兄弟と話せないのに父とは話せません。そしてこれは正義を乗り越えること、律法学者やファリサイ派の人々を超えることです。このプログラムは簡単ではありません、でしょう?けれどこれはイエスが、わたしたちの間での平和のうちに前進し続けるために指摘する歩みなのです。協定を結ぶことであっても、いつも言行一致を保ち、神の子であるという精神をもって」。 (MZ,ER – RV)

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