2014年6月6日金曜日

6月3日(火)朝ミサ説教:イエスは御父に自分の傷口を見せつつ我々のために祈る


 イエスはわたしたち一人一人のために、自分の傷を御父に見せながら祈る。これが聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの間の説教でパパ・フランシスコが引いた強い箇所の一つである。教皇はイエスがわたしたちを、たとえ悪いことがあっても、多くの罪を犯していたとしてもわたしたちを擁護する弁護者である、と強調した。

 いえすの告別、聖パウロの告別。この日の朗読箇所はパパに取次の祈りについて留まる機会となった。パウロがミレトスを去るとき、みな悲しかった。それはイエスが「ゲッセマニに行って受難の始まりに乗り出す」前の告別説教を口にしたときに弟子たちにも起きたことであった。主は彼らを慰め、「わたしたちに考えさせるイエスの告別の短いフレーズがあります」。イエスは「御父と語りこう言います。『彼らのためにお願いします』。イエスはわたしたちのために祈ります」。ペトロのため、また墓の前でラザロのために祈ったように祈ってくれるのです。イエスはわたしたちに言います。「あなたたちはみな御父のもの。わたしはあなたたちのために御父の前で祈ります」。イエスは世界のためというのではなく、「わたしたちのために祈る、その教会のために祈る」のです。

 使徒ヨハネは、こうしたことを考えながら、そしてあまりに罪びとであるわたしたちについて語りながら言います。「罪を犯してはなりません。しかしもしあなたたちの中で誰かが罪を犯すならば、御父の前に一人の弁護者がいることを知りなさい。わたしたちのために祈り、御父の前でわたしたちを弁護し、わたしたちを義としてくれている一人の人が。思うにわたしたちはこの真理、この現実についてたくさん考えなければならないでしょう。この瞬間に、イエスがわたしのために祈ってくれている、という。わたしは人生において前進して行ける。なぜなら私を擁護してくれる弁護者がいるからで、もしわたしに非があるなら、それにしてもたくさん罪があるんですよ、でしょう!良い擁護者弁護者がいて、この方が、わたしのために御父に話してくれるのです。

 主は最初の弁護者で、その後でパラクリトス(聖霊)を送ります。そしてわたしたちが小教区で、家で、家族で「何かが必要になったら、何かの問題があったら」、イエスにわたしたちのために祈ってくれるように求めなければならないのです。「そして今日、イエスはどのように祈っているでしょう?わたしは御父とあまり話さないのではないかと思います」。

「話しません。愛するのです。けれどイエスが供する一つのことがあります。わたしはそれをしていると確信しています。イエスは御父に自分の傷を見せています。そしてイエスは、その傷をもって、わたしたちのために祈ります。まるで「けれど、父よ、これがこの人々に払った大小です。でしょ?彼らを助けてください。守ってください。彼らはわたしがこれで、救ったあなたの子らです」と御父に言っているかのようです。そうでなければ、なぜイエスが、復活の後、この栄光に満ちた、最高に美しい体を望んだのか、青あざもなく、むち打ちの傷もなく、すべて美しい…しかし…傷跡があった、五つの傷があったその体を望まれたのか。なぜイエスは体にその傷を負い続けることを望んだのか?なぜでしょう?わたしたちのために祈るためです。御父に代価を見せるためです。『これが代価です。今、彼らを一人ぼっちにしないでください。彼らを助けてください」。

 わたしたちはこの信仰を持たなければなりません。イエスが、「この瞬間に、わたしたちのため、わたしたち一人一人のために御父の前で取り次いでいることを信じること」。そしてわたしたちが祈るとき、わたしたちはイエスにわたしたちのために祈ってくれるようにと求めるのを忘れてはならないのです。

「『イエス、わたしのために祈ってください。あなたの傷口を、それはわたしがつけた傷、わたしの罪の傷でもあるのですが、その傷口を御父に見せてください。これはこの瞬間ある私の問題の傷です』。取り次ぎ手であるイエスは、御父にその傷を見せるだけです。そしてこれは今日も、この瞬間にも起こっているのです。イエスがペトロに言った言葉を見ましょう。「ペトロ、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」。

 「イエスがこれをわたしたち一人一人のためにしているのだということに確信を持ちましょう。わたしたちは「御父の前でその傷をもってイエスがしているこの祈りに」信頼を持たなければならないのです。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

0 件のコメント:

コメントを投稿