2020年2月3日月曜日

2019年2月2日(奉献生活の日)説教


今日の典礼はその民に会いに来るイエスを示します。これは出会いのパーティ、祭典です。赤子の新鮮さと神殿の伝統が出会い、約束はその成就を見いだし、青年マリアとヨセフは老人シメオンとアンナに出会う。すべてが、イエスが到着すると、決定的に出会います。

これが言わんとすることは?まず、わたしたちも、出会いに来るイエスを出迎えるように呼ばれていることです。主に出会うこと。命の神には、わたしたちの存在の続く毎日で合わなければなりません。時々じゃなくて毎日です。イエスに従うって、一度決めたらずっと確定、というんでなくて、毎日の選択なんですね。主にはバーチャルに出会うんでなくて、直接、生活、生活の具体的なことのなかで見いだすんです。でなければ、イエスは過去のすてきな思い出に留まる。でも彼を命の主、すべての中心、何にもましてドキドキの止まらない心として受け止める時、主はわたしたちの中で生き、もういちど生きる。神殿で起きたことと同じことがわたしたちにも。イエスの周りですべてが出会い、生活はハーモニーに満たされる。イエスと共に前進し続けるやる気としっかりする力を見いだすんです。主との出会いは泉です。だから、源泉回帰は大切です。わたしたちがかつてイエスと交わした決定的な出会いの記憶に戻ること。初恋の感覚を再体験すること、きっと主との愛のストーリーを文字に起こすのは良いでしょう。わたしたちの奉献生活に役立つはずです。わたしたちが過ぎゆく時になってしまわず、出会いの時、場になるために。

もしわたしたちの主との決定的な出会いを思い出すなら、それが神とわたしたちだけのプライベートなものとして生じたものではないことに気付きます。信じる民の中、多くの兄弟姉妹のただなか、指摘できる時と場所の中で生じたのです。福音は、この出会いが神の民のなかで、その具体的な歴史のなかで、生きた伝統の中にあることを示しています。神殿で、律法に従い、預言の雰囲気の中で、青年と老人が一緒に。同じことは奉献生活にも言える。これは教会の中で芽吹き、花開く。もし別々にしたら、花が散る。青年と老人が一緒に歩くとき成熟するんです。青年がその起源を見いだし、老人がその実りを受ける時です。それができないと、つまり独り歩きし、生き残るために過去にこだわったり、先に急ぐと行き詰まるのです。今日は、出会いの祭典なので、信じる民の中に生きる主を再発見し、受けたカリスマが今日の恵みを見いだせりように恵みを願いましょう。

福音はまた、神とその民との出会いには始まりと目的があると言います。神殿への招きに始まり、神殿での展望にいたります。呼びかけは二重です。最初の呼びかけは「律法に従った」ものです。ヨセフとマリアへの呼びかけで、神殿に行って、律法に記されたとおりのことを果たそうとします。歌の折り返しのように、四回も書かれています。堅苦しいものではない。イエスの両親は無理やりとか、ただ外面的に言われたことをこなしに行くのではありません。神の呼びかけに応えようとして行くのです。二つ目の呼びかけは、聖霊に従うようにという呼びかけです。シメオンとアンナがこれを体験します。これも何度も強調されます。シメオンに関しては聖霊について語られるのが3回、そして女預言者アンナも、神をたたえるためにインスピレーション、霊感を受けます。二人の青年たちが律法の呼びかけに応え、二人の老人が聖霊によって動かされて神殿に急ぎます。ダブルの呼びかけです。立法と聖霊からの呼びかけ。わたしたちの霊的生活や奉献生活にはこれは何を教えているのでしょう。わたしたちは皆、二重の従順に呼ばれているということです。律法は、つまり、生活のためのよい秩序という意味ですが、これと、聖霊、生活の中ですべてを新しくするものです。主との出会いはこうやって始まるのです。聖霊は隠されていた主を示しますが、主を受け入れるためには、日々のたゆまぬ忠実さが必要なのです。秩序ある生活なしには、どんなに大きなカリスマがあっても実りが期待できません。一方で、すばらしい規律も、聖霊の新しさが無ければ不十分です。規律と聖霊はともにあります。

今日イエスの生活の最初の日々に、つまり神殿に見る呼びかけをよりよく理解するために、イエスの公的奉仕の始まりに目を向けることができます。カナです。そこでイエスは水をワインに買えました。そこにも従順への呼びかけがあります。マリアが「この人の言う通りにしてくださいね」という時です。イエスが言うことを、です。そこでイエスは変わったことを頼みます。急に珍しいことをするのではなく、何もない所から足りないワインを生み出すのではなくて、たぶんできたかもしれませんが、具体的で大変なことを求めます。律法を思い起こさせる、清めの儀式に用いられる石のカメ、六つを満たすように言うのです。つまり、井戸から600リットルくらいの水を汲み出すことを意味します。時間も労力もかかる上に、無駄なことをしているかに見える。足りないのは水ではなく、ワインなのですから。けれど、まさにそのカメがしっかり満たされると、「ふちまで」満たされると、イエスは新しいワインを酌み出します。わたしたちにも同じことが起きます。神は具体的なことへの忠実さを通して主に出会うようにとわたしたちに呼びかけます。神というのは、いつも具体的なことの中で出会えるのです。日々の祈り、ミサ、赦しの秘跡、ほんものの愛徳、日々のみことばの黙想、心でも実際にも、助けを必要とする人の近くに行くこと。こういったことが、奉献生活では上長や規律への従順と同様に具体的なことです。もしこうした決まりが愛をもって、愛を持ってですよ、実行に移されたなら、聖霊はやってきて、神の驚くべきわざをもたらします。あの神殿や、あのカナで行われたように。日々の生活という水が、そこで新しさというワインに変化します。そして型にはめられたと感じられていた命は、実際にはもっとも自由に満ちたものになります。今、この瞬間、わたしの脳裏には一人のシスターのことが浮かんでいます。謙虚で、司祭や神学生のそばにいるカリスマを持っていた人でした。一昨日、彼女の列福のための調査がこのローマ教区で始まりました。シンプルなシスターで、目立つことも無く、けれど従順という知恵、忠実さという知恵があり、新しいことにも物おじしませんでした。主に、このベルナルデッタというシスターを通して、この道を続けられる恵みを求めましょう。

呼びかけから生まれる出会いは、展望で頂点に達します。シメオンは言います。「わたしの目は救い主を見た」。赤子を見て、救いを見るのです。奇跡を行う救済主を見るのではなく、小さな赤子を見るのです。特異なものは何も見ず、神殿に山鳩か家鳩ひとつがい、つまりつつましやかな奉納物を持って歩く両親と共にいるイエスを見るのです。シメオンは神のシンプルさを見て、その現存を受け入れます。それ以上求めず、たのみ、それ以上何も求めません。赤子を見て腕に抱くだけでいいのです。「今こそ、行かせてくださって結構です」。彼には、神はこのようなもので十分です。この神の中に人生の最終的な意味を見いだすのです。これが奉献生活の展望です。神を目の前に据え、その腕に抱かれ、それ以上求めない謙遜の中で、シンプルで預言に満ちた展望です。命は主にあり、希望も主、実りも主。奉献生活は教会におけるこの預言的な展望なのです。多くの人は気づかなくても、世におられる神を見る眼差しなのです。「神で十分、他のものは過ぎ去る」と語る声なのです。女預言者が示すように、何事があっても生み出される賛美なのです。アンナはとても高齢の女性でした。何十年もやもめとして生活していましたが、暗かったり、過去の思い出に浸ってアンニュイになったり、自分の世界に閉じこもったりする人ではありませんでした。その反対で、やってきて、神をたたえ、ひたすら神について語るのです。わたしはこの女性が「いいつぶやき」を持っていたと考えるのが好きです。悪いつぶやきではなくて。これは、わたしたちの改心のためのよい守護聖人です。なぜなら、他の人にひたすら「あの人ですよ、あの赤ちゃんですよ、行って、見てきなさい!」とのみ言っているからです。わたしは地元のおばさんのような、彼女のそういう所を見るのが好きです。

これが奉献生活です。神の民に喜びをもたらす賛美、重要なものは何かを示す預言的展望。奉献生活がそのようなものであるとき、花開き、すべての人にとって、中途半端や、霊的生活の低下、神を手玉に取ろうとしたりどうせゆるしてもらえるから、という態度をとる誘惑、居心地よく、世俗的な生活の導入、嘆きや不満やため息、神を納得させないフレーズである「できることならしますけどね」「いつもこうだった」と言う習慣、に対する訴えに変わります。奉献生活は生き残り作戦ではありません。「よい死に方のアート」を準備するものではないのです。これは召命減少を前に現在見られる誘惑です。違います、生き残り作戦ではなく、新しく生きることなのですよ。「でも、わたしたち少ないですし・・・」いえいえ、新しく生きることです。主と民との生きた出会いです。日々の忠実な従順への呼びかけです。聖霊の予期せぬ驚きへの呼びかけです。喜びを手に入れるために胸に抱くことを重要視する展望です。その喜びは、イエスです。