2017年3月27日月曜日

第32回ワールドユースデー(2017年枝の主日) メッセージ



大好きな青年の皆さん

31回ワールドユースデーと、いつくしみの特別聖年の文脈で青年のジュビリーを祝ったクラクフでのすばらしいわたしたちの集いの後で、わたしたちは改めて歩み始めました。
そこで神の慈しみの使徒であった聖ヨハネ・パウロ二世と聖ファウスティーナの導きに任せて、わたしたちの生きる現代の挑戦に対する具体的な答えを見いだそうとしました。
兄弟愛と喜びを力強く体験し、わたしたちは世界に対して希望のしるしを与えました。異なる国旗や言語は対立や分裂のきっかけではなく、橋を建設するためにわたしたちの心の扉を開く機会となりました。
クラクフのワールドユースデーの後で、わたしたちの巡礼の次の目的地は、神の助けのもと2019年にパナマになることを指摘しました。この歩みには、全世代が世々限りなく幸いな者と呼ぶおとめマリア(ルカ148節参照)が同伴してくださいます。
わたしたちの道のりの次のステージは、前回のものにつながっていて、〈真の幸福〉を中心にしていますが、わたしたちを前進するようにと促します。わたしが望んでいるのは、皆さん、青年たちが、過去の思い出を作るだけではなく、現在において勇気を作り、未来において希望を作りながら歩むことです。
こうした態度は、いつもナザレの若きおとめマリアのうちにあり、次の回のワールドユースデーのために選んだテーマにはっきりと映し出されています。今年(2017年)はマグニフィカトの中で「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから(私訳:全能の方がわたしに大いなることをなさいました)」(ルカ148節)と言った時のマリアの信仰について考えます。
来年(2018年)のテーマである「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた(私訳恐れるな、マリア、神の御前であなたは恵みを見出した)」(ルカ129節)は、おとめマリアが天使からお告げを受けた時の決断力に満ちた愛徳についての黙想に導きます。2019年のワールドユースデーは、マリアの天使に対する希望に満ちた応えである「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ138節)という言葉からインスピレーションを受けます。

2018年の10月に、教会は司教シノドスを祝います。そのテーマは『青年たち、信仰、召命の識別』です。そこでわたしたちは、皆さん青年たちが、わたしたちの生きる現代がもたらす挑戦のただなかで、信仰体験をどのように生きるかについて問います。

広い意味、つまり、結婚や、信徒の環境や専門の場、あるいは奉献生活や司祭生活といった、皆さんの召命を識別しながら人生の計画をどのように展開させることができるかという問いをも扱います。


わたしたちの時代は「ソファーに甘んじた青年」は必要ではない

ルカ福音書によれば、天使のお告げを受けて、救い主の母となるための呼びかけに対してその『はいという答え』で応答した後で、マリアは立ち上がり、妊娠して六カ月になる親戚エリサベトのもとを訪問しに急いで出かけます(136節、39節)。
マリアはとても若かった。マリアに告げられたことはものすごい賜物でした。けれど、それはものすごく大きな挑戦でもありました。主は一緒にいることと助けを保証しましたが、まだその考えにも気持ちにもすっきりしないことがたくさんありました。それでもマリアは家の中に閉じこもることはなく、怖れやおごりで身動きができなくなるようなことありませんでした。
マリアは穏やかでいるために居心地よく安全だと感じられる、良質のソファーを必要とするようなタイプの人ではありませんでした。「ソファー青年」ではないのです(2016730日徹夜祭演説)。もし自分の年老いた いとこが助けを必要としているならば、ためらうことなく、早速現地に向かい始める人なのです。
エリサベトの家に着くまでの距離は長い。150キロメートルほどです。けれどナザレの若きマリアは、聖霊に促されて、障壁を前に留まることはありません。間違いなく、皆さんが体験したワールドユースデーでの旅は、参加している人に生じる素晴らしい出来事について黙想するのに役立ったことでしょう。
同じことが巡礼の歩みを始めるにあたり、わたしたちに生じます。長い道のりのうちに、人生の出来事が脳裏に浮かんだり、その意味に入り込んだり、神との出会いや他者への奉仕のうちに示される自分の召命を深めたりもします。


力ある方が私に偉大なことをなさいました

若い女性と年老いた女性という二人の女性の間での出会いには、聖霊の現存が満ちていて、そこには喜びと驚きが満ちています(ルカ14045節)。二人の母は、そのおなかに運ぶ二人の息子たちと同様に、幸せのあまり今にも踊り出しそうになります。エリサベトは、マリアの信仰に「信じた人は幸い。なぜなら主が言ったことは果たされる」から と感心しながら叫びます(45節)。
そうです、おとめマリアが受けたプレゼントの中でも最も素晴らしいものの一つは信仰です。そしてエリサベトはそれ故にマリアを祝福します。マリアは一方で、マグニフィカトの歌で答えますが(ルカ146節-55節参照)、そこで私たちは「偉大な方が大いなることを私にして下さいましたから」という言葉を見いだします。
マリアの祈りは革命的です。これは、自分の限界を知りつつも、神のいつくしみに信頼する、信仰に満ちた若い女性の歌です。この小さく勇気のある女性が神を喜ばせます。というのも神はその小ささを見つめ、自分に託された人々、貧しい人々、様々な欠乏を体験している方々に実現したからです。
信仰はマリアの物語すべての心臓部にあります。その賛歌は私たちが、どのように主の慈しみが、わたしたち個々人にとっても、人類全体にとっても、その歴史の原動力であるかということを理解するのに役立ちます。
神が男の子の心、女の子の心に触れる時、彼らは大いなるわざを行える存在になります。マリアの人生の中で偉大な方がなさった「大いなること」は、無意味にぶらつくことではなく、どれほど不明確なことや苦しみがあっても、神においてその充満に出会う巡礼であるわたしたちの人生の旅路についても語っています(2015815日のお告げの祈りにて)。
あなたたちは私にこう言うでしょう。「神父さん、でも私は色々とできないことばかりです」「私は罪びとです」「何ができるでしょうか?」と。主がわたしたちを呼ぶとき、わたしたちがどんな状態にあるかとか、何をしてきたかには目を留めません。その反対に、わたしたちを呼ぶときに、神はわたしたちがこれから差し出しうるもの、わたしたちに提供できる愛のすべてを見ておられるのです。
若いマリアのように、皆さんは自分の人生を、世界をよりよくするための道具に変えることができます。イエスは皆さんに、人生において足跡を、皆さんの歴史と多くの人々の歴史を刻むような足跡を残すようにと呼び掛けているのです(2016730日、クラクフでの徹夜祭において)。


青年であるということは過去から断絶していること意味しない

マリアは、皆さんの多くがそうであるように、思春期を少し超えたくらいでした。それなのに、マグニフィカトの中で、自分の民と歴史をたたえます。このことは、青年であるということは過去から断絶していること意味しない、とわたしたちに教えています。わたしたちの個人的な歴史は、長い時間、何世紀にもわたってわたしたち以前に存在してきた共同体的歩みの一部を成すのです。
マリアのように、わたしたちは一つの国家集団に属しています。そして教会の歴史は、荒狂う海を渡らなければならない時でさえ、神の手がこれを導き、困難な時を乗り越えさせてくれることをわたしたちに教えています。教会における本物の体験は、フラッシュモブのようなものではありません。つまり、時間指定をしてタイミングを合わせ、パフォーマンスをしたらその後でそれぞれが自分の道を行く、というようなものではないのです。
教会はその内側に長い伝統を抱えていて、それは世代から世代へと受け継がれていきます。そしてそれは同時に一人ひとりの経験をって豊かになります。皆さんの歴史も同じように、教会の歴史のなかにその場を占めているのですよ。
過去のことを思い出すのは、神がわたしたちの中で、またわたしたちを通して行いたいと望んでいる新しいわざを受けるためにも役立ちます。そしてわたしたちが神の道具、神の救いのプロジェクトの協力者となることを選び取るのを支えます。
青年の皆さんも、もし自分の人生の中で、神のいつくしみ深く全能のはたらきを認識するなら、大いなることを行い、大いなる責任を引き受けることができるでしょう。
わたしは皆さんにいくつかの質問をしてみたいと思います。自分の人生の出来事や経験を、皆さんの記憶の中でどのように「維持して」いますか? みなさんの記憶の中に刻まれた出来事やイメージを相手に何をしていますか? 人によっては、人生の状況によって傷つけられ、自分の過去を「やり直し」、できることなら忘れてしまいたいし皆にも忘れてもらいたい、と望む人もいるでしょう。
けれど皆さんに思い出してもらいたいのは、過去のない聖人はいないこと、未来のない罪人もいないことです。真珠(パール)は貝の傷から生まれます。イエスは、その愛をもって、わたしたちの心を癒し、わたしたちの傷をほんものの真珠に変えることができます。聖パウロが言っていたように、主はわたしたちの弱さを通してその強さを示されるのです(IIコリント129節参照)。
それでもわたしたちの記憶、ハードディスクのメモリーのように、山積みにされたままにしてはなりません。すべてをバーチャルな「クラウド」にため込んではいられないのです。過去の出来事ダイナミックな現実にすることを学ばなければなりません。その現実について回想し、わたしたちの現在と将来のための教えと意義を引き出すためです。わたしたちの全存在をつなげる神の、愛の〈赤い糸〉を見いだすことは、難しいけれど必要な務めなのです。
多くの人々が皆さん青年のことを、物事をすぐ忘れるし、うすっぺらい、と言っています。わたしはまったくもってこれに賛同できません。けれどわたしたちの生きる現代において、自分の人生についてよく考える能力を回復し、未来に向かっていかなければならないということ納得しなければなりません。〈過去がある〉ということは、歴史を持つ〉ということ同じではありません。
わたしたちの人生では、実に多くの記憶を持つことができますが、そのうちのどれほどが本当にわたしたちの思い出をなすでしょうか? どれほどがわたしたちの心にとって意義深く、わたしたちの存在に意義を与えるのに役立つでしょう? 「ソーシャルネットワーク」には、まぁ大体ほんものと言えるような出来事について物語る、ものすごい量の写真に見られる青年たちの顔がたくさん現れます。けれどそのすべてのうちのどれほどが「歴史」、つまり目的と意義を持って語られうる体験なのか分かりません。
テレビのプログラムには「のぞき見ショー」(”Big brothers”のようなリアリティショー番組)があふれていますが、それは本物の歴史は作りません。それはカメラの前で過ぎる短い時間で、番組に出てくる人たちが、その日暮らしを人生計画もなく過ごすのを見せるだけです。このような「本物」についての偽りのイメージに騙されてないようにしてください。皆さんは、自分の歴史の主役となり、自分の未来を決めてください。


どのように一致し続けられるのか。マリアの模範に従いつつ
マリアのことはよく、出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた、と語られます(ルカ219節、51節)。この素朴なナザレ女性が、人生の出来事の記憶を心に納め、またその出来事を一つにつなぎ、断片を再構成して全体でモザイクを作ることができるような模範をもって、わたしたちに教えます。では、どのようにすれば、そのような意味で具体的に実践できるのでしょうか。皆さんにいくつかの助言をします。
毎日、その一日の終わりに、素敵な瞬間や挑戦、うまくいったことや、うまくいかなかったことを思い出すために数分間何もしない時間を作るのもいいでしょう。このようにして、神の前で、またわたしたち自身の前で、感謝の念や反省、信頼の念をあらわすことができます。また、もし望むなら、ノートにいわゆる霊的日記のように書きつけることもできるでしょう。
これは生活の中で、生活をもって、生活について祈る、ということです。そしてまったくもって確かに、主が皆さん一人ひとりの中で実現する偉大なわざをよりよく理解するのに役立つことでしょう。聖アウグスティヌスが言っていたように、神にはわたしたちの思い出の広い平野にそれを見いだすことができるのです(『告白録』十巻812節)。
マグニフィカトを読みながら、マリアが神の言葉について持っていた知識に気づきます。この歌の一節一節には、旧約聖書にその平行箇所があります。イエスの若い母はその民の様々な祈りをよく知っていたのです。きっとその両親と曽祖父たちがマリアに教えたに違いありません。
ある世代から次の世代への信仰伝達がどれほど重要なことか! わたしたちの先祖たちが教えてくれた祈りや、わたしたちが民間信仰として知っている、素朴な人々の文化で生きていたそうした霊性に、隠された宝があるのです。マリアは自分の国の人々の信仰の遺産を拾い上げ、それを使ってまったく自分のものでありながら全教会のものでもある歌を作るのです。
教会全体はマリアと共にこの歌を歌います。皆さん青年もマグニフィカトを完全に自分のものとして歌い、自分の人生を全人類のための賜物とすることができるためには、歴史の伝統につながり、皆さんに先立つ人々の祈りは基本です。
そこから聖書、つまり神の言葉をよく知ることの重要性、自分の人生と向き合い、主が聖書において私たちに語ったことに照らして日々の出来事を解釈しながら毎日聖書を読むことの重要性が現れます。祈りの中、また聖書の祈りながらの読書(レクチオ・ディヴィーナと言われているもの)の中で、イエスは皆さんの心を燃え立たせ、存在の最も困難な時にすら、皆さんの歩みを照らすでしょう(ルカ241335節参照)。
マリアはわたしたちにエウカリスティア的な態度のうちに生きることを教えます。それは感謝をささげ、賛美をつちかい、問題や困難にのみ錨を下ろすことのないようにする態度です。人生の躍動の中で、今日の祈りは、明日には感謝のきっかけになっていることでしょう。
このようにして、皆さんのミサへの参加とゆるしの秘跡を祝う瞬間は、同時に頂点でありながら出発点になります。皆さんの生活はゆるしをもって日々新たにされ、全能者である神へのたゆまぬ賛美になるでしょう。「神の記憶は優しいあわれみに満ちた心です。その心は、わたしたちの中の悪の痕跡を『消す』ことに喜びを見出します」(2016731日、クラクフでのワールドユースデー閉会ミサ説教より)。
ここまでマグニフィカトが年老いた いとこのエリサベトと出会った時にマリアの心から湧いてきたものであることを見てきました。エリサベトは、その信仰をって、その洞察力をもって、その言葉をもって、マリアの中での神のわざや、神がマリアに託した使命の偉大さを、マリアがよりよく理解するように助けます。そして皆さん、皆さんは青年たちと老人たちとの出会いが意味する豊かさの計り知れない源泉に気づきますか? 皆さんの知っている老人たちや、皆さんのおじいさんやおばあさんは皆さんにとってどれほど重要ですか?
皆さんは、あまりに当然のことではありますが、「飛び立とう」という気持ちを高めています。心の中にたくさんの夢を抱えています。けれどそこには高齢者の知恵や展望必要です。皆さんは自分の羽を風に乗せて広げている間、自分の根を見いだし、自分の先を歩んでいる人々の承認を得ることは不可欠です。
意味のあるような将来を建設するためには、過去の出来事を知り、それらを前に自分なりの姿勢を取ることが必要なのです(使徒的勧告『愛の喜び』191項、193項参照)。皆さん、青年の皆さんには力があります。それは高齢者の皆さんやその記憶、知恵です。エリサベトといたマリアのように、皆さんの眼差しを皆さんの周りにいる高齢者に向けてください。彼らは皆さんの思考をわくわくさせ、心をどきどきさせるようなことを語ってくれるでしょう。


新しい時代を作り上げるための創造的な忠実さ

皆さんが生きてきた年数が少ないのは確かです。だからこそ、伝統に対して必要な価値評価を与えるのが難しいのも確かです。このことは、別に伝統主義になることを意味しないことをよく覚えていてください。違います。福音の中のマリアが「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ148節)と言う時、あの「偉大なこと」は終っておらず、今でも実現し続けている、とっているのです。
おぼろげな遠い昔のことではありません。過去の記憶を追う能力があるということは、ノスタルジーにふけることも、歴史のある時期にしがみつき続けること意味しません。自分の起源を認識し、いつも本質的なものに戻ることで、創造的な忠実さをもって新しい時代の建設に踏み出すことなのです。
いつも同じ仕方で同じことを実現するように強いる、身動きを出来なくする記憶をつちかうことは、誰の利益にもならないひどい問題でしょう。皆さんの多くが、皆さんの対話の相手や夢、問いをもって、物事が違ってあることを認めない人々に向き合うのを見るのは、天の賜物です。
現在の価値だけを認める社会は、過去から受け継いできているすべてを軽蔑する傾向にあります。たとえば結婚の制定や奉献生活の制定、司祭の使命の制定などです。そうしたものは意味は空しく、その形式はもう時代遅れのものだと考えられています。
「オープン」と言われている状況を生き、のぞき見番組(リアリティショー)のように目的も行先もなく生きるほうがよいと考えられています。騙されてはいけません。神は皆さんの人生の地平を、あらゆる方向に広げるために来たのです。神は幸福な未来をよりよく目指すためのふさわしい価値評価を過去に与えるのを助けます。けれどそれは、わたしたちがほんものの愛の経験を体験するときにのみ可能です。本当の愛の体験とは主の呼びかけを見いだすことや、それに協力することのうちに具体的になります。これがわたしたちを本当に幸せにする唯一のことなのです。
愛する青年の皆さん、パナマへの皆さんの歩みと、次回の司教シノドス準備の道のりを、幸いなる若きおとめマリアの、母親らしい取り次ぎにゆだねます。この2017年に関しては二つの重要な記念日を思い起こすように招きます。ブラジルにおけるアパレシーダのマリア像の発見300周年と、ポルトガルのファティマでの聖母の出現百周年です。ファティマに関しては、もし神が望まれるならば、今度の五月に巡礼に行きたいと思っています。
ポレスの聖マルティンは、ラテン・アメリカと2019年のワールドユースデーの守護聖人の一人ですが、彼にはその日々の謙虚な祈りと奉仕生活の中で、自分の子としての愛のしるしとして、マリアに一番の花を捧げる習慣がありました。皆さんも、マルティンのように、聖母との、家族の関わりや友情関係をつちかい、マリアに皆さんの喜びや不安、心配ごとを委ねてください。後悔しないことを確証します。
ナザレの青年マリアは、全世界でその子らに近づくために、何万もの顔ぶれや名前を引き受けてくださいます。このマリアが、わたしたち一人ひとりのために取り次ぎ、わたしたちを通して主が実現する偉大なわざを告げ知らせるのを助けくれますように。

バチカンより
2017227日、痛みの聖母の聖ガブリエルの記念日に

フランシスコ

2017年2月18日土曜日

WYDクラクフ2016 祈りの徹夜祭にて



大好きな青年の皆さん、こんばんは。

この祈りの徹夜祭に皆さんと一緒にいられるのはすばらしい。

勇気ある感動的な証しを終えるにあたって、ランドが私たちに何かをお願いしていました。「私の愛する祖国のために祈ってください、どうかお願いします」と言っていました。戦争、痛み、喪失に刻まれたお話でしたが、それは一つのお願いで締めくくられました。祈りのお願いです。私たちの徹夜祭を祈りで始めるほど良いことはありませんね。

世界のいろいろな場所、国、言語、文化、色々違う町から私たちはやってきました。戦争を含め、様々な種類の対立のために戦いと向き合っている国に生まれた「子どもたち」もいるでしょう。あるいは、「平和」に暮らせる国にいて、戦争のような対立はなく、痛みに満ちた物事はニュースや新聞で見受けられるくらいしかない国から来た人もいるでしょう。

でも一つの現実を意識していてください。今日、ここに、世界のいろんなところからやってきた私たちにとって、多くの青年たちが体験している戦争は、無名のものでは終わらない、ということを。私たちにとって、それは新聞のニュースでは終わりません。名前があります。顔があります。歩みがあります。近さがあります。

今日、シリアでの戦争は、ここで私たちの間にいて愛する祖国のために祈って欲しいと私たちに頼んでいる勇気あるランドのような多くの青年たち、多くの人々の痛みと苦しみなのです。

ある意味で触れられるほどにはない、遠い出来事のような状況が存在します。携帯やPCの画面を通してしか見ないので理解できない現実があります。

でも命に、こうした具体的ないのちに触れるとき、それはもはや画面というメディア媒体化されたものではなくなり、なにか重要なことになります。全員が関わるように呼び掛けられていると感じます。「忘れられた町がもうこれ以上ないように」、ランドが言ってくれたことです。誰も助けてくれないと感じながら「死と殺りくに囲まれた」兄弟たちがいるなどあり得てはならないのです。

大好きな友の皆さん、戦争、世界に今あるこうした戦争の結果である、苦しむ多くの犠牲者たちのために祈りましょう。愛するシリアや世界の他の場所の多くの家族のために祈りましょう。兄弟の血を流すことを正当化することは何もないこと、隣にいる人がどれほど価値があるかをすぐにしっかりと理解することができますように。この祈りのお願いの中で、ナタリアとミゲルにも感謝したいと思います。君たちも自分の闘い、内なる戦いについて分かち合ってくれたからです。わたしたちにその戦いを示し、それをどう乗り越えてきたかを話してくれました。それは私たちの間であるべきいつくしみの生きたしるしです。

だれに対しても今は声を上げません。喧嘩をするわけではありません。壊したいわけでもありません。中傷したいわけでもありません。わたしたちは憎しみに対してさらなる憎しみで、暴力に対してさらなる暴力で、恐怖に対してさらなる恐怖で上回りたいわけではないのです。私たちが今日ここにいるのは、主がわたしたちに呼び掛けてくださったからです。そして戦争のあるこの世界への私たちの応えには名前があります。それは兄弟愛と呼ばれます、兄弟であることと呼ばれます、交わりと呼ばれます、家族と呼ばれます。

様々な文化背景から来ていることを祝い、祈るために一つになりましょう。わたしたちの最高の言葉、最高の演説が、祈りにおいて一つになる、という行為でありますように。短い沈黙をして祈りましょう。神の前に今聞いた友達の証しを差し出しましょう。「家族が存在しない概念になり、家がただ寝て食べる場所になってしまっている」人々や、自分の失敗や罪が自分を決定的に枠の外に追いやってしまったと信じる恐れを体験している人々の現実に私たちの身を置きましょう。そして皆さんの「戦い」、わたしたちの闘い、一人ひとりの闘いを自分の心の奥底、わたしたちの神の現存の中でとらえましょう。このために、家族としているために、立って、手を取り合い、沈黙のうちに祈りましょう、みんなで。

(沈黙の祈り)

祈っている間に、私の脳裏に聖霊降臨の日の使徒たちのイメージがわきました。私たちの生活の中で、わたしたちの中で、わたしたちとともに神が実現したいと夢見たことすべてを理解するのに役立つ場面です。あの日、弟子たちは恐れで閉じこもっていました。自分たちを迫害してくるだろうという脅威におびえ、小さな部屋にかたまり、静かに動けずにいました。恐れが弟子たちを支配していたのです。その文脈の中で、何かものすごいこと、壮大なことが起こりました。聖霊が来て、炎のような舌が一人ひとりの上に留まり、それまで夢見たこともないような冒険へと弟子たちを駆り立てたのです。物事というのはそのように変わるのです。

今三つの証しを聞きました。わたしたちは心で彼らの歩み、彼らの命に触れました。わたしたちは、弟子たちと似たような時、怖れに満ちた時、すべてが崩壊するかのように見える時を彼らがどのように体験したかを見ました。家を出たらもう二度と愛する人々に会えなくなるかもしれないと分かることから生まれる恐れや不安、認められも求められもしないと感じることから来る怖れ、ほかの機会がないことからくる恐れ。

三人は弟子たちが体験したのと同じ体験をわたしたちに分かち合ってくれました。恐れはある一か所にしか私達を連れて行かないのですが、それを体験しました。恐れは私達をどこに導くのでしょうか。閉鎖です。そして恐れが閉鎖へとわたしたちを閉じ込める時、いつもその「双子」が伴います。それは麻痺です。動けないと感じるのです。この世界の中で、自分の町で、自分の共同体で、もう成長したり夢見たり、創造したり地平線を眺めたり、つまりは生きるためのスペースがないと感じることは、人生の中、とりわけ青年期に介入し得る最悪のことです。麻痺は出会いや友情を味わう魅力、共に夢見、他者と共に歩む魅力を失わせていきます。わたしたちを周りの人から遠ざけ、手を広げるのを妨げます。みんなで見てきたように、内側のその場所に閉じこもるのです。

けれど人生には青年たちにとってはもっと危険な麻痺がまだあります。それはたいがいどういうものか見定めることが困難なもので、なかなか見つけられないものです。わたしはその麻痺を「幸せ」を「ソファー」と取り違える時に生まれるものと呼ぶのが好きです。そうです、それは幸せになるためにいいソファーが必要だと思うことです。私たちが居心地よく落ち着いて、安心していられるように役立つソファー。最近は安眠マッサージ機能付きのソファーもありますが、ゲームの世界に移動させ、コンピューターの前で何時間も過ごすためのおだやかな時間を保証するソファーです。

あらゆる痛みや恐れと正反対のソファー。辛い思いも心配もせずに家の中に閉じこもらせるソファー。「ソファーの幸福」は、恐らくじわじわと青年期に最大の害をもたらすものです。神父さん、どうしてそんなことが起こるんですかときくでしょう。なぜなら、少しずつ、気づかないうちに、眠りこけ、とろくなり、阿呆になっていくからです。先日は、20歳で定年退職を迎える青年のたとえをしました。今日は眠りこけ、とろくなり、阿呆になる青年の話をしましょう。

一方で、他人が‐たぶんいちばん姑息だけれど、一番良いわけではない他者が‐、わたしたちの将来を決めていきます。当然、多くの人にとって、幸せをソファーと取り違えているとろくて阿呆な青年たちを抱えていた方が簡単で利益にもなります。けれど、神の夢や心に湧き上がる大志に応えながら目覚め、そわそわしている青年たちを抱える方がよりよいと思える人もたくさんいます。

皆さんに質問したい。皆さんは眠りこけ、とろく、阿呆な青年になりたいですか? 皆さんの将来を他人に決めてもらいたいですか? 自由でありたいですか? 将来のために奮闘したいですか? あんまり自信がなさそうですね。 自分の将来のために奮闘したいですか?(青年たち「はい!」)

真実は別のところにあるのです。大好きな青年たち、私たちがこの世に来たのは「植物状態になる」ためではありません。居心地よくときを過ごし、わたしたちを眠り込ませるソファー人生とするためではないのです。その逆で、わたしたちは別の目的で来ているのです。足跡を残すために来ているのです。何の足跡も残さずに人生の時を過ごすのはとても悲しいことです。けれど、居心地の良さを選択するとき、幸せを消費と取り違える時、そこでの支払いはとても、それにしてもとても大きなものになります。自由を失うのです。私たちが足跡を残すために自由はなくなり、自由を失います。これが支払い額です。青年たちが自由ではなく、阿呆で、とろく、眠りこけ続けるのを望む人々がたくさんいるのです。こんなことは本気でありえない。私たちの自由を守らなければならない。

それこそがまさに強大な麻痺なのです。幸せを居心地の良さの同義語だ、幸せになるというのは眠ったまま、あるいは麻酔状態で人生を過ごすことだ、幸せになる唯一の方法はとろく進むことだ、と考え始める時にそこにある麻痺です。もちろん麻薬は命によくありません。けれど社会的に認められ、わたしたちを多かれ少なかれ奴隷状態に陥らせる別の麻薬があるのです。どのようなものであれわたしたちの一番よいもの、自由をはぎ取るものがあるのです。それらは自由をはぎ取るのです。

友である皆さん、イエスはリスクの主です。いつも「更なる向こう側」の主です。イエスは快適の主ではありません。安心や居心地の良さの主ではないのです。イエスに従うためには、勇気の分け前が必要です。ソファーを質に出して今まで夢見たことも考えたこともない道、神の愛から生まれる喜び、いつくしみの行為や態度一つ一つをあなたの心に残す喜び、そういった喜びを伝染させることのできる新しい地平を切り開く道、を歩むのに役立つ靴に交換するように、やる気を出さなければなりません。

わたしたちの神の「愚かさ」に続く道を行くことは、空腹の人、飢え渇く人、裸の人、病気の人、不幸に見舞われた友人、刑務所にいる人、避難民、移民、孤独な近所の人の中で神に出会うようにとわたしたちに教えます。より連帯意識に満ちた経済について考えるようにと促す政治の主役、社会を動かそうと考える人になるようにとわたしたちを招くわたしたちの神の道を行くこと。皆さんが直面するあらゆる環境で、その神の愛はわたしたちが福音をもたらし、自分の生き方神と他者献身するようにと招きます、これこそ勇気があるということです。これこそ自由であるということです。

「神父さん、でもそれって全員のことじゃなくって、選ばれた何人かのことですよ」と私に言ってくるかもしれません。そうですね、その通りです。ですがこの選ばれた人たちが自分の命を他者と分かち合う心構えを持っていてほしいものです。聖霊が聖霊降臨の日に麻痺していた弟子たちの心を変容させたのと同じように、今日体験の証しを分かち合ってくれたわたしたちの友達にも同じことをしてくれました。

君の言葉を使わせてもらうよ、ミゲル。君は、ファチェンダ(大土地農場)で家がよりよく機能するのを助ける責任を任された日に、神が君に求めていることを理解し始めたんだと私たちに話してくれたよね。そうやって変容が始まったんだ。

これが、大好きな友達の皆さん、みんなが体験するようにと呼ばれている秘訣なんです。神さまはあなたに何かを期待しているんです。みんなわかりましたか?神さまは君に何かを求めている。神さまはあなたに何かを期待している。神さまは私たちの禁域を壊すために来ます。神さまは私たちの命、私たちの展望、私たちの眼差しの扉を開けに来るのです。神さまは君を閉じ込めるものすべてを開きに来るのです。神さまは君が夢を描くように招いています。神さまはあなたと一緒なら世界は今と違ったものになりうるということをあなたに見せたいのです。そうです、もし君が君の一番のものを提供したら、世界は今と違うものになるんです。これは挑戦です。

今わたしたちが過ごしている時代は、ソファー青年ではなくて、靴を履いた青年、いやむしろ、選手のスパイクを必要としているのです。この時代はフィールドでの選手だけが必要で、補欠のスペースはありません。今日の世界は皆さんに歴史の主役になるようにと求めているのです。なぜなら人生は、わたしたちがこれを生きようと望むならいつでも美しい、足跡を残したいと望むならいつでも美しいからです。

今日のお話は私たちの尊厳を守り、私たちの将来を他人が決めるままにしないようにと求めています。ダメです。私たちは自分の将来を決めなければなりません。皆さんは皆さんの将来を。主は、聖霊降臨の時と同じように、体験し得る最大の奇跡の一つを実現したいと望んでいます。それは君の両手、私の両手、私たちの両手が和解のしるし、交わりのしるし、創造のしるしへと変容することです。神さまは今日の世界を建設し続けるために君の両手を必要としているのです。神さまは君と一緒に世界を建設したがっている。君は、なんて答えますか?なんと答えるのですか、はい、ですか、いいえ、ですか?

「神父さん、でも私の力はとても限られています。私は罪びとです。何ができるでしょう」と言うかもしれませんね。主が私たちを呼び掛ける時は、私たちが今どんな人物なのかとか、これまでどういう人物だったか、過去に何をしてきたか、何をせずに来たかについては考えません。その反対です。主は、私たちに声をかけるその瞬間、私たちがこれから提供しうるすべてのもの、人に伝染させられるような愛すべてを見ています。主が期待しているのはいつも将来のこと、明日のことなのです。イエスは、あなたを地平へと送り出すであって、決して博物館送りにすることはないのです。

だから、友達のみなさん、今日イエスはあなたを招いています。あなたが人生に自分の足跡、歴史を刻む足跡、あなたの歴史と多くの人々の歴史に刻む足跡を残すようにと呼び掛けています。今日の生き方は私たちが互いを分裂させること、別れさせることに目を向ける方がずっと簡単だと語っています。自分に閉じこもるのが私たちに悪をもたらすことから自分を守るための最善の方法だと思い込ませようとしています。今日、私たち大人は、私を含め、大人たちは皆さんを必要としています。今皆さんがしているように、多様性の中、対話の中、多文化性を分かち合う中で共に生きることを、脅威ではなく一つのチャンスであるとすることを私たちに教えてくれる皆さんを必要としています。皆さんは未来に対する一つのチャンスなのです。壁を築き上げるよりも橋を建設する方がより簡単だということを私たち大人に教える勇気を持ってください。私たち大人はこのことを学ぶ必要があるのです。

そうやってみんなで一緒に、強いて兄弟愛の道に移行できるように願いましょう。もし私たち大人が壁や敵意、戦争の生き方を選ぼうものなら皆さんが私たち大人の告発者であってください。橋を建設すること。最初に建設するべき橋は何だか知っていますか? それは今、ここで作ることのできる橋です。手を伸ばしてごらんなさい。手を取り合って。さぁ、さぁ、今やってごらんなさい、人間の橋を造りましょう。手を差し出して。皆さん、全員。その最初の橋です。人間の最初でモデルとなる橋です。

一日中ずっと手を広げたままでいるのはリスクにさらされた状態です。けれど人生において、リスクにさらされるのは必須です。身をリスクにさらさない人は何も得ません。この橋で前進しましょう。この最初の橋で。手を伸ばしてください。

ありがとう。大きな兄弟愛の橋。この世界の大人たちがこの橋を作ることを学んでくれますように。でもそれは写真撮影のためではないですよ。あれは握手しますけど、別のことをやってます。いつも前より大きな橋を建設し続けるためです。この人間で造られた橋が他の多くの人にとって種となりますように。そうすればこれが足跡になるでしょう。

今日、道であるイエスは、君に、あなたに、あなたに、君に呼び掛け、歴史に自分の足跡を残すように声をかけています。命であるイエスは、あなたの歴史と他の多くの人々の歴史を命で満たすような足跡を残すようにと招いています。真理であるイエスは、不和や分裂、無意味の歩みから離れるようにと招いています。分かりました? 皆さん分かりましたか? 今どう応えますか? 分かりましたか? 道、真理、命である主にあなたの両手両足を見せてほしい。

皆さんの夢を主が祝福してくださいますように。ありがとう。