2015年2月22日日曜日

第30回ワールドユースデーのメッセージ:思い切って幸せになりなさい!



「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ58節)

愛する青年のみなさん

 20167月に行われる、次の世界青年の国際大会の開催地であるクラクフへのわたしたちの霊的な巡礼を進めてまいりましょう。この歩みのガイドとして、わたしたちは真福八端に関する福音のテキストを選びました。去年は心の貧しい人に関する真福について色々と考えました。その時には「山上の垂訓」のより広い文脈にこれを据えて考えました。そこで真福八端の革命的な意義と、幸せを求める冒険へと心して飛び込んでいくようにとのイエスの強い呼びかけを見いだしました。今年は、六つ目の本当の幸せ、「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ58節)について色々と考えていきましょう。

1.幸せへの願い

 「幸い(幸せ)」という言葉は、イエスのこの最初の大説教で九回出てきます(マタイ5112節参照)。これは主とともに、あらゆる困難にもかかわらず、本当の幸せへと導いていく道をたどっていこうという主の呼びかけをわたしたちに思い出させる、歌で言えばサビの部分のようなものです。

 愛する青年のみなさん、あらゆる時代の、またあらゆる世代のすべての人々は幸せを探し求めています。神は男女の心の中に幸せや満たされることへの深い切望を据えました。皆さんの心が何か気になり、その無限の飢えを満たすことのできるようなよいものをずっと探していることに気づきませんか?

 創世記の最初の数章は、わたしたちが呼ばれている幸せ、神や他の人々、自然、またわたしたち自身との完全な交わりから成る素晴らしい本当の幸せをわたしたちに紹介しています。神やその現存と親密な関わりへの自由なアクセスは、太初から人類に関する神の計画の部分を成していました。そして本当にまた透明に神の光が人のあらゆる関わりに沁み通っていくようにしていました。この太初の清い状態には、「かぶりもの」はなく、言い訳も、互いに隠れる理由もありませんでした。すべてがきれいではっきりしていたのです。

 男性も女性も、誘惑に道を明け渡すときに、人は神との交わりと信頼の関係を破壊し、罪が人の歩みという歴史に入り込むのです(創世記3章参照)。その結果には、すぐに自分自身との関わり、お互いの関わりや自然との関わりの中で気づかされます。しかも劇的に。太初の清さはちょうど公害で汚染されたようになってしまいます。その瞬間から、神の現存への直接的なアクセスはもはや不可能になってしまいます。隠れる傾向が見られるようになり、男も女もその裸の体を覆わなければならなくなります。主の眼差しからやってくる光をなくし、自分たちを取り囲む現実を、歪んだ、近視眼のようにぼやけたように見るようになります。幸せへの探求を導いていた心の中にある「羅針盤」がその指し示す点を失い、なにをしてでも権力や所有物を手に入れたいという欲求や、快楽への欲求という誘惑が彼らを悲しみと不安の淵へと導きます。

 詩篇の中に、魂の底から神に訴える、人類の叫びが見いだされます。「主の御顔の光がわたしたちから遠ざかったのなら、わたしたちに恵みを示すものなどあろうか?(新共同訳:恵みを示すものがあろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください)」(詩篇47節)。御父は、その無限の善意をもって、この嘆願に対して我が子を送ることで答えます。神が人の顔をその身に受けるのです。その受肉、生活、死と復活をもって、わたしたちを罪から贖い、わたしたちのために、そのときから不可欠となった新しい地平線を見つけてくれるのです。

 そのようにして、キリストにおいて、愛する青年の皆さん、皆さんはその善意と幸福の夢が完全に成就した状態を見出すことになります。キリストだけが、しばしば世俗的な偽りの約束のために気落ちした皆さんの期待を満足させることができるのです。ちょうどヨハネパウロ二世はこのようなことを言っていました。「イエスこそが皆さんをこんなにも惹きつける美なのです。イエスこそが居心地の良さに身を任せないようにするラディカルな生き方へのその渇きを引き起こす方なのです。イエスこそが人生を偽りに満ちたものとしてしまう仮面を置いていくようにと促す方なのです。イエスこそが、他の人たちが生き埋めにしようとする、皆さんの心の中にあるほんものの決意を読みとってくださる方なのです。イエスこそが皆さんの中で皆さんの人生をなにか偉大なものとする望みを呼び起こす方なのです」(トール・ヴェルガータでの祈りの徹夜祭にて、2000819日)


2.心の清い人々は幸いである…

 それでは、なぜこの本当の幸せが心の清さを通っていくのかについて深めてみましょう。何よりもまず、「心」ということばの聖書的な意味を理解しなければなりません。セム民族の文化にとって、心は感情の中心、思考の中心、人間の何かをしようという心持ちの中心でした。もし聖書がわたしたちに、神は見た目ではなく心を見る、と教えているなら(サムエル記上167節参照)、わたしたちの心というのが、そこから神を見ることのできる場だと言うこともできるはずです。これはその通りです。というのも、わたしたちの心は、体と魂の全体やこれらとの一致、愛し愛されるその能力へと集中しているからです。

 「清い」ということの定義に関していえば、マタイ福音記者に用いられた言葉は「カタロス」ということばで、その意味は基本的には「清いこと、汚染物質から免れていること」です。福音の中で、イエスがある一定の、汚れていると考えられた物や人(その中には、ハンセン氏病患者や外国人も含まれます)との接触を禁じる、外面性に結び付いた儀式的な清さの概念を拒絶している様子をわたしたちは見ています。当時の他の多くのユダヤ人同様、ファリサイ派の人々は、水での清めを行わずには食事をせず、物質の清さについての多くの伝統をしっかり守っていましたが、イエスは彼らにきっぱりとこう言います。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。…中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」(マルコ715節、2122節)。

 そういうわけなら、清い心から出る幸せとは一体なにからできているのでしょうか?人を汚れたものとする悪についてイエスが挙げる一覧を通して、それは何よりもわたしたちの関わりの分野と関連せずにはいない何かに関することであることが分かります。誰しも自分の心を「汚染する」ことのできるものは何かを学び見つけたり、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ」(ローマ122節)たりすることのできる、まっすぐで感受性に満ちた良心を形作らなければならないのです。もし、空気や水、食料が汚染されていないようにと、被造物に気を払い、これをふさわしく守らなければならいのだとしたら、わたしたちが持っているもの、つまり心や人との関わりといったものという最も貴重なものの清さを保つようにしなければならないのは言うまでもないことです。この「人のエコロジー」というのは、美しいものや、ほんものの愛、聖性といったものから来る清い空気を吸う助けになるものなのです。

 わたしは皆さんにこう尋ねたことがあります。皆さんの宝はどこにありますか、皆さんの心は何において憩いますか、と(2014331日、ベルギーの青年たち数人とのインタビュー)。そうです、わたしたちの心はほんものの宝にも偽物の宝にも執着し得るものなのです。そこでほんものの休息を見いだすことも、まどろむこともできますし、そうして自分から怠け者や無感覚な人間にもしてしまいます。人生で手にすることのできる最も貴重な善は、神とわたしたちとの関わりです。皆さんはこのことを本当にそういう風だと信じていますか?神の目にある計り知れない価値観に気づいていますか?この確信が消えるとき、人間は理解不能な謎キャラになってしまいます。なぜならまさにわたしたちの人生に意義を与えるものというのは神によって無条件に愛されていることを知ることにあるからです。イエスと金持ちの青年との対話を覚えていますか(マルコ101720節参照)? マルコ福音記者はイエスがその青年を愛情をこめて見つめ(21節参照)、その後でその青年がほんものの宝を見いだすために自分についてくるようにと呼び掛けたと言っています。愛する青年のみなさん、このキリストの愛に満ちた眼差しが、皆さんの一生涯ずっと一緒についていくようにとわたしは望んでいます。

 若いうちに、皆さんの心の中にある愛情面での大いなる富、ほんもので素晴らしく偉大な愛への深い願いが出てきます。この愛し愛される能力にはどれほどのエネルギーがあることでしょう! この実に貴重な価値観が欺瞞に満ちたり破壊されたり弱体化されたりしないようにしてください。このことは、わたしたちの関係が、単なる快楽の目標となるような場合や、自分勝手な目的のために隣人を都合よく利用することによって刻まれるときに生じます。そうした暗い体験の後で、心は傷つき悲しくなります。わたしはひたすら祈ります。イエスが教え、聖パウロが「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」(コリント1348節)と描写している、あのほんものの愛を恐れてはなりません。

 同時にわたしは、愛への人間らしい召し出しの美しさを見いだすようにと皆さんを招きます。皆さんには、「愛」を矮小化するひどく広まったその傾向に対抗するようにお願いします。特に、愛を性的な側面だけに狭め、そうやって美や交わり、幸福や応答責任といったものの本質的な特徴を奪おうとする場合にはぜひとも対抗していただきたい。愛する青年のみなさん、「その場限りのものの文化、相対性の文化では、多くの人がそのときを『楽しむ』ことが重要だと告げ知らせています。全人生のために献身すること、決定的な選択をすること、『いつまでも』という価値観には賭けるだけのやりがいがない、なぜなら明日のことは分らないからだ、と。わたしはむしろ、皆さんにそういう考えの真っただ中で革命家となってほしいと思います。そんな流れには逆らっていきなさい。そうです。このことにおいて、皆さんにこうしたその場限りのものの文化に反抗して下さいと頼みます。そうした文化は、深い所では、皆さんは責任をもって生きることができない、みなさんにはほんとうの意味で愛する能力がない、と考えているのです。若い皆さん、わたしは皆さんを信じています、そして皆さんのためにとりなします。思い切って『流れに逆らって生き』なさい。思い切って幸福になりなさい」(2013728日、リオ・デ・ジャネイロのワールドユースデーにて、ボランティアとの会合にて)。

 青年の皆さん、皆さんは、開拓の専門家なのです。もしこの分野で教会の豊かな教導職を見いだす決意がなされるなら、キリスト教は皆さんの幸福への切望を消してしまう禁止の一覧からなるのではなく、わたしたちの心を引き付けることのできるいのちのプロジェクトからなっていることを見ることでしょう。


3.…なぜならその人たちは神を見るからである。

 あらゆる男性、女性の心の中には、主の招きがたゆまず響いています。「わたしの顔を尋ね求めよ」(詩篇278節)と。同時に、わたしたちの罪びとであるという哀れな条件にもいつも直面しなければなりません。それがわたしたちが読んでいることですが、例えば、詩篇の書にはこうあります。「どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人」(詩篇2434節)。けれど恐れたりがっかりしたりしないようにしましょう。聖書において、またわたしたち一人ひとりの歩みの中で、いつも神さまが最初の一歩を踏み出しているのをわたしたちは見ています。神さまこそが、その現存の中にいるのにふさわしい者となるようにとわたしたちを清めてくださる方なのです。

 預言者イザヤは、主の名において語るようにと主からの呼びかけを受けたとき、驚きました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者!」(イザヤ65節)。けれど主は天使を通してイザヤを清めます。天使は唇に触れ、「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(7節)と言ったのです。新約においては、イエスがゲネサレト湖畔で最初の弟子たちを呼んだときに、奇跡的な漁という神ワザをやってのけ、その時シモン・ペトロはイエスの足もとに身を投げこう言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ58節)。間髪入れずに答えが返ってきました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)。そしてイエスの弟子の一人が「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と求めると、師であるイエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ」と答えました(ヨハネ1489節)。

 主と出会うようにとの主の招きは、皆さんがどのような場所や状況にあろうとも皆さん一人ひとりに向けられています。「イエスとの出会いを妨げないようにし、倦むことなく日々トライする決意をする」ことで充分です。「誰にもこの招きは自分には向けられていないと考えるような理由などないのです」(使徒的勧告『福音の喜び』3)。誰もが罪びとであり、主によって清められることを必要としている人です。けれど、特にわたしたちの心を清め再創造する神の憐れみと出会うための絶好の機会である和解の秘跡(日本では通称「ゆるしの秘跡」)において、いつも両手を広げてイエスがわたしたちを待っていることに気づくためにイエスに向けて最初の小さな一歩を踏み出すだけでいいのです。

 そうです、愛する青年のみなさん、主はわたしたちと出会いたいと望んでおり、わたしたちにその御顔を「見」せたいのです。きっと皆さんはわたしに質問するでしょう。「でも、どうやって?」と。ちょうどぴったり500年前にスペインで生まれたアヴィラの聖テレジアも、小さいときから両親にこう言っていたものです。「わたし、神さまを見たい」。テレジアは後になって祈りの道を見いだし、これを「友情のことです。つまりわたしたちを愛してくれていると知っている相手と二人きりでいるかのように何度も留まることなのです」(命の書8,5)と描写しています。ですから、皆さんにわたしは問いかけます。皆さんは祈りますか? 皆さんは友達と語り合うかのようにイエスや御父、聖霊に語ることができることを知っていますか? しかも神さまはそんじょそこらの友だちとは違い、ベスト・フレンド、一番信頼できる友だちなのです。やってみてごらんなさい、つつましやかに。アルス村の農民が聖ヴィアンネ神父に言っていたあのことに気づくことができるでしょう。「わたしが聖櫃(ひつ)の前で祈るとき、『わたしはあの方を見て、あの方はわたしを見ているのです』」(カトリック教会の要理2715

 また、聖書をしばしば読みながら主と出会うようにとわたしは皆さんを招きます。もしまだ慣れていないなら、福音書からお始めなさい。毎日一シーン読むのです。神のことばが皆さんの心に語り掛けるようにして、その光が通る道となりなさい(詩篇119105節参照)。兄弟たちの顔、特に貧しい人々、飢えている人々、渇いている人々、外国人、刑務所にいる人々(マタイ253146節)といった、より忘れられている人々の顔にも神を「見る」ことができるということにお気づきなさい。何かそういった経験はありますか? 愛する青年の皆さん、神の国の論理に入るためには、貧しい人たちとともにいる貧者としての自覚をする必要があります。清い心というのは、必然的に、へりくだっており、人生をより窮乏にある人々と分かち合うことのできる、覆いを奪われた心でもあるのです。

 祈りにおける神との出会い、聖書読書を通じた神との出会い、兄弟的生活における神との出会いは、主をよりよく知り、また皆さん自身をよりよく知る助けとなるでしょう。エマオへの弟子たちに起こったように(ルカ241335節)、イエスの声は皆さんの心を燃え立たせ、皆さん一人一人の個人的・人格的な歩みにおけるその現存を認識するための目を開かせ、そうしてその皆さんの人生に対して神が持っている愛のプロジェクトを見いださせます。

 皆さんの中には婚姻への主の呼びかけ、つまり一つの家族をなすという呼びかけを感じていたり、これから感じたりする人もいるでしょう。こんにちではこの召し出しは「時代遅れ」であると考えられることもありますが、それは真理ではありません。まさにそのため、わたしたち全教会共同体は、教会や現代世界の中での家族の召し出しと使命に関して色々と考える特別な時期を生きているのです。また、奉献生活や司祭への呼びかけについて考えるようにと皆さんを招きます。キリストとその教会の奉仕に完全にささげ尽くす召し出しを抱きとる青年たちを見るのはなんと素晴らしいことでしょう。清い心で問いかけをし、神が皆さんに求めることを恐れないでください。その主の呼びかけへの皆さんの「はい」という返事に始まり、そこから皆さんは教会と社会における希望の新しい種と成るでしょう。皆さんは忘れないでください、神のみ旨はわたしたちの幸福にあるということを。

4.クラクフへの道

「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ58節)。愛する青年のみなさん、この本当の幸せの項目は皆さんの人生のとても近くに触れ、その幸福の保障となっています。だからこそ、もう一度繰り返します。思い切って幸せになりなさい。

 今年のワールドユースデーをもって、次に2016年にクラクフで行われる青年たちとの世界的な大きな待ち合わせのための、最終準備段階へと進んでいきます。今、聖ヨハネパウロ二世が教会にワールドユースデーを設立してから30年を迎えます。ペトロの後継者(=教皇)の導きのもとでこの諸大陸を貫く青年たちの巡礼は、ほんとうに摂理的で預言的なイニシアティブとなってきました。全世界の多くの青年たちの人生にこれまでくださったあふれんばかりの実りを思い、主に感謝しましょう。どれほどの重要な発見があることか。何よりも道であり真理であり命であるキリストを見いだし、ホスピタリティに満ちた大家族としての教会を見いだしながら。ワールドユースデーの守護聖人である聖なる教皇(=ヨハネパウロ二世)が、彼の愛するクラクフに向かうわたしたちの巡礼のために執り成してくださいますように。「本当に幸い」で恵みに満ち、あらゆる美にまさりあらゆる純潔さにもまさるおとめマリアが持つ「本当の幸い」の母としてのまなざしが、いつもこの歩みにおいてわたしたちと共に進んでくださいますように。

バチカン2015131
聖ヨハネ・ボスコの記念日に