2015年4月3日金曜日

4月2日(木)、聖香油ミサ説教



「わたしの手は彼を固く支え わたしの腕は彼に勇気を与えるであろう」(詩篇8922節)と主は、自分自身に語り掛けながら考えます。「わたしはわたしの僕ダビデを見いだし 彼に聖なる油を注いだ」(同21節)。わたしたちの御父は、司祭に「出会う」たびにこう考えます。そしてさらに加えます。「わたしの真実と慈しみは彼と共にあり…彼はわたしに呼びかけるであろう あなたはわたしの父 わたしの神、救いの岩、と」(同25節、27節)。

 この我らが神の独りごとの世界に詩篇作者と共に入っていくのはとても素晴らしいことです。神はわたしたち、自分の司祭、自分の神父たちについて語ります。けれど実際には独り言ではありません。一人で話しているのではないのです。御父がイエスに告げているのです。「お前の友人たち、お前を愛する人たちが、わたしに特別な仕方で言うであろう。『あなたはわたしの父です』と」(ヨハネ1421節参照)。そして、主がどのようにわたしたちを助けられるかについて考えそれほどまでに心配しているのは、忠実な民に油を注ぐというのは大変な仕事であり、わたしたちを疲れや倦怠へと導く仕事だとわかっているからです。あらゆる形でわたしたちはこれを体験しています。日々の使徒的任務の恒常性の疲れから、病気や死、更には殉教における完全燃焼に至るまでです。

 司祭たちの疲れ… 皆さんはこのことについてわたしがどれほど考えているか知っていますか?みなさん全員の疲れについて。わたしはたくさん考え、しばしば祈ります。特に自分が疲れたときに。託された神の忠実な民、それも多くの場所はかなり見捨てられ、危険なところですが、そうした民の間で働いている皆さんのために祈っています。そしてわたしたちの疲れは、愛する司祭の皆さん、ちょうどすぅっと静かに天に上っていく香の煙のようなものです(詩篇1412節、黙示録834節参照)。わたしたちの疲れはまっすぐに御父の心へと向かうのです。

 おとめマリアがこの疲れに気づき、すぐに主に気づいてもらえるようにしているとの確信を持ってください。彼女は、母として、自分の子らがいつ疲れているかを理解することができ、それだけを見てくださるのです。「ようこそ。休みなさい、我が子よ。その後で話しましょう。…わたしがここにいるではありませんか、あなたの母なのだから」。いつでもマリアは自分のところにわたしたちが近づいてくるようにと言うでしょう(『福音の喜び』286参照)。そして御子には、カナでそうだったように、「ぶどう酒が足りません」と言ってくれるでしょう。

 それから、司牧の仕事が重いと感じると、まるで休息が神に属するものではないかのように、めくらめっぽうに休もうとする誘惑がわたしたちを訪れるかもしれません。この誘惑に陥らないようにしましょう。わたしたちの疲労は、わたしたちを受け留め、わたしたちを両足で立たせてくださるイエスの眼差しにとって尊いものです。「だれでも疲れた者、重荷に押しつぶされそうな者は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを楽にしてあげよう」(マタイ1128節)。死ぬほど疲れて、礼拝のかたちに寝そべって伏すことができると知っている人は、「主よ、今日はもう一杯いっぱいです」と言い、御父の前にひざまずくことができます。またそうすると沈み込むのではなく新たにされることもわかります。なぜなら神の忠実な民に喜びの油を注いだ人には、主も油を注いでくださり、「灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせ」(イザヤ613節)ます。

 司祭の実りをもたらす能力の秘訣の一つは、どのように休み、どのように主がわたしたちの疲れに対処してくださるかを感じるかにあるということを、しっかりと意識しましょう。休み方を学ぶというのは、本当に難しいものです! ここに、わたしたちの信頼がかかっており、わたしたちも羊の群れであることを思い出すことがかかっているのです。この点について、いくつかの問いがわたしたちの役に立つでしょう。
Ø  自分は神の忠実な民がわたしにくれる愛や無償性への感謝、あらゆる愛情表現を受けることで休むことができているだろうか。それとも、司牧の仕事の後で、より手の込んだ休息、つまり貧しい者の休息の仕方ではなく、消費世界が提供する休息方法を探していないだろうか。
Ø  聖霊は、わたしにとって本当に「仕事の時の休み」になっているだろうか、それとも単に自分に仕事を持ってくる存在でしかないだろうか。
Ø  だれか知恵のある司祭に助けを求めることができているだろうか。
Ø  自分自身にあるもの、自己強制や自己満足、自己言及といったもののスイッチを切って休んでいるだろうか。
Ø  主のもたらす責務-負いやすく、軽いくびき-のうちに憩い、主の満足-彼らがわたしと共にいることが気分のいいこと-のうちに憩い、主の興味や言及すること-神のより大いなる栄光のみに関心がある-のうちに憩うため、イエスとの対話、御父との対話、聖母との対話、聖ヨセフとの対話、自分の近しい守護聖人との対話ができているだろうか。
Ø  主の守りのもとに自分の敵たちから距離を取って休むことができているだろうか。
Ø  自分の言い訳を何度も咀嚼しながら一人であれこれ議論を展開させ、ぐるぐると思考を展開させていないだろうか、それともそれぞれの機会に応じて言うべきことを教えてくださる聖霊に信頼を置いているだろうか。
Ø  極端に心配したり、不安になったりしていないだろうか、それとも、パウロのように、「わたしは自分が信頼している方を知っている」(IIテモテ112節)と言って休息を見いだしているだろうか。

 今日典礼がわたしたちに宣言する司祭の務めの数々をしばらく再確認しましょう。貧しい人々によき新しい訪れを運ぶこと、囚われ人に解放を、目の見えない人に癒しを告げること、抑圧された人に自由を与えること、主の恵みの年を告げ知らせることです。そしてイザヤは付け加えます。打ち砕かれた心の人を癒し、悩む人を慰めることです。

 それは、新しく信徒会館のホールを建築するとか、オラトリオの青年たちのためにサッカーグラウンドを整備するとかという、物事のやりくりのような、簡単で外面的な仕事のことではありません。ここでイエスによって言及されている務めは、わたしたちの共感の幅を含みます。それはわたしたちの心が「動かされ」、揺さぶられるような務めなのです。わたしたちは結婚するカップルと共に喜び、洗礼のために連れて来られた赤ちゃんと一緒に笑い、結婚を準備している青年たちや家族に寄り添います。病院のベッドで塗油を受ける人と共に痛み分けをし、愛する人を埋葬する人々と共に泣きます。実に多くの感情や愛情が司牧者の心を疲弊させます。わたしたち司祭にとって、わたしたちに託された人々に関する話は、ニュースの報道ではありません。わたしたちは自分の民を知っていて、その心にどのようなことが起こっているかを想像できます。そしてわたしたちの心は、同情する時(彼らと共に苦しむ時)、ほつれていき、何千ものかけらに分断されます。そしてゆすぶられ、人々に食べられてしまうかのようにまでなります。「皆、これを取って、食べなさい」と。それはイエスの司祭がその忠実な民の世話をしていくときにたゆまなく口ずさむ言葉なのです。「これを手にして食べなさい、これを手にして飲みなさい」と。そのように、わたしたちの司祭としての生活は奉仕と、神の忠実な民との近さのうちにささげられていき、いつも疲れるのです。

 ここで、わたしが黙想したいくつかの疲れについて皆さんと分かち合いたいと思います。

 「人々による疲れ、群衆による疲れ」とでも呼びうる疲れがあります。主にとって、わたしたちもそうであるように、これは大変なものでした-福音書がそういっています-。けれど、それはよい疲れです。実りと喜びに満ちた疲れです。イエスに従っていた人々、子どもを祝福してもらおうと彼のもとに子どもたちを連れて来た家族、癒してもらった人々、友だちと一緒にやって来た人々、ラビ(先生)のもとで心を躍らせていた青年たち…、彼らはイエスに食事をする時間すら残しませんでした。けれど主は人々と共にいることに飽きを感じることはありませんでした。その反対に、新たにされていたかのようです(『福音の喜び』11参照)。わたしたちの活動のさ中でのこの疲れは往々にして、わたしたち司祭すべての手の届くところにある恵みです(同上279参照)。これはよいことですね、人々がその司牧者を愛し、求め、必要とすることは! 忠実な民はわたしたちを直接の務めなくは済ませません、事務所に引きこもったりガラスをシャドウつきにした車で町を横行したりしないかぎりは。そしてこの疲れはよいもの、健康的なものです。これが羊の香りのする司祭の疲れですが、息子たちや小さな孫たちを見つめる父親の微笑みの伴うものです。高価な香水の香りを漂わせ、遠くから、また高い所から眺められるものとは全然相容れないものです(同上97参照)。わたしたちは〈花婿〉の友人であり、それがわたしたちの喜びなのです。もしイエスがわたしたちの間で司牧をしているならば、わたしたちは酸っぱい顔の司牧者、不満だらけの司牧者、さらにはつまらなそうな司牧者ではありえないはずです。羊の香りと父親の微笑み…。当然、しっかりと疲れているけれど、「わたしのもとに来なさい、わたしの御父から祝福された人たち」(マタイ2534節)と主が言ってくださるその声に耳を傾ける人々の喜びを持った司祭です。

 「敵たちによる疲れ」と呼びうる疲れもあり得ます。悪魔とその従者たちは眠ることはなく、その耳はみことばに耐えられないので、みことばを告げる者の口をつぐみ、みことばをゆがめさせるために疲れ知らずに働いています。この場合、こうした敵に立ち向かう時の疲れはより厳しいものとなります。あらゆる疲労の伴うよいわざを行うことにとどまらず、悪から群れも自分自身も守らなければならないのです(『福音の喜び』83参照)。悪なる存在はわたしたちよりもずるがしこく、長い間忍耐をもって建設したものを一瞬で地に打ち崩すことのできる存在です。ここで、中和することを学ぶ恵みを求めなければなりません。悪を中和し、毒麦は抜かず、主のみが守らなければならないものを自分がスーパーマンであるかのように守ろうとしないことです。こうしたことすべては悪の濃厚さを前に、また悪意を持った人の嘲笑を前に諦めてしまわないのを助けてくれます。こうした疲れの状況に向けられた主の言葉は、「恐れることはない、わたしは世にうち勝っている」(ヨハネ1633節)ということばです。

 そして最後に、-この説教が皆さんを疲れさせてしまわないように(笑)-、「自分自身から来る疲れ」もあります(『福音の喜び』277参照)。これはおそらく、より危険なものです。なぜなら他の二つの疲れはさらされていること、自分自身から出向いて行って油を注ぎ、戦うことから来るからです(わたしたちが誰かを守る存在になっているからです)。ところが今述べた疲れは、より自己完結型です。これは自分自身に関する失望であり、自分が罪びとであると気づき許しを必要とする者の穏やかな喜びをもって、前に目を向けるようなことがありません。後者は助けを求め、前進します。しかし前者は「求めながら求めない」ということがもたらすものです。すべてを賭けたものの、後になってエジプトのニンニクやタマネギを懐かしく思うこと、ほかのものになる夢を抱いてプレイすることです。こうした疲れには、わたしは「霊的世俗性でナンパすること」と呼びたいと思います。そして、一人になったときに、生活の大部分にこうした世俗性が、どのような風呂に入れてもきれいにならないのではないかという印象を与えるほどに浸透していることに気づきます。黙示録の言葉はこの疲れの原因を指摘しています。「あなたは苦しみ、よく忍耐して、わたしの名に対する愛のために熱心に働き、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった」(234節)。愛だけが疲れを取ることのできるものです。愛し合わない者は疲れ、長い目で見ると、ひどい疲れ方をするのです。

 主がどのようにわたしたちの司牧的疲れの手当てをしてくれるかについての深く神秘的なイメージは、「自分のもとにいる人たちを愛し、極みまで彼らを愛された」(ヨハネ131節)という、洗足の場面にあります。わたしはこの場面を追従の洗いとして見つめるのが好きです。主は追従そのものを清めます。主はわたしたちに「巻き込まれ」て下さるのです(『福音の喜び』24参照)。個人的にあらゆる汚れ、主の名においてわたしたちが作ってきた歩みの間にわたしたちについてきたべとべとした世俗的な塵を清める役を買って出ます。

 足を見るとわたしたちの体全体がどのような状態かを見ることができるということをわたしたちは知っています。主にどのように従っているかは、わたしたちの心がどうなっているかによって表現されます。足の傷、曲がった様子、疲れはわたしたちがどのように主に従い、主の失われた羊たちを探して群れを緑の牧場、おだやかな泉に連れて行こうとして、どの道に入り込んでいったか(同上270参照)のしるしです。主はわたしたちを洗い、従っている間にわたしたちの足に溜まったものをすべて清めてくださいます。それは聖なるものです。汚れたままであることはゆるされません。そのように、主が戦闘での傷に接吻するように、仕事での汚れを洗ってくださるのです。

 イエスへの追従は同じ主の手で洗われます。それはわたしたちが「喜び」「満たされ」「恐れも罪による責めもなく」いられる権利を感じ、そうして世の終わりまで、毎日、主がわたしたちと共にいてくださることを知りながら(マタイ2821節参照)、より見捨てられた人々にこのよき訪れを運ぶために、「世の端々まで、あらゆる中心から外れたところまで」出かけて行こうと気分を高めることができるのです。そのように疲れることを学びましょう、けれどしっかりとよく疲れましょう!

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