2013年9月6日金曜日

9月5日(木)、朝ミサ説教:キリスト者一人ひとりのために、イエスは一つの約束と使命を持っている。

 9月 5日(木)コロサイ1・9-14
          ルカ5・1-11

 主がこられる時、「通り過ぎているのに自分ではそのことに気づかないのではないかと思うと不安です」。この聖アウグスティヌスの言葉の引用をもって、パパ・フランシスコは聖マルタの家の小聖堂で今朝祝われたミサの説教を始めた。パパはキリストがキリスト者の人生の中で自らを示す時に、支えを差し出し、一人ひとりに努めを委ねながらなされる、援助方法について考えをめぐらした。

 慰めをもたらす約束、寛大な願い、果たすべき使命。そのようにイエスはキリスト者の人生の中で現存される。決してこの三重の形式を放棄することはない。大漁の奇跡のしるしをもってキリストがペトロ、ヤコブ、ヨハネにご自分を示された福音のエピソードを思い返しながら、フランシスコはこう断言した。

 何よりもまず、イエスはあのしるしで驚いてしまったペトロを、「人をすなどる漁師」にするという約束をしながら落ち着かせます。そのあとで自分に従うためにすべてを置いてくるようにと招き、最後に、一つの使命を委ねます。

 使徒たちのケースでは、「主が奇跡とともに彼らの人生の間を通っていきました」。けれど「必ずしもいつもわたしたちの前や中を奇跡を伴って通られるとは限りません」けれど「いつも何かを感じさせます」とパパは見解を述べた。 

 主がわたしたちの人生にこられる時、わたしたちの心を通っていく時、いつもあなたに一言語り、またこの約束をしていきます。『前進しなさい…元気を出して、恐れずに、なぜならあなたはこのことをすることになっているのだから!』。それは使命への招きです。イエスに従うようにとの招きです。そしてこの二つ目の瞬間を感じる時、自分たちの生活の中に何かうまくいかないものがあることを見ます。それを直さなければならず、そしてこれを広い心で手放します。あるいはさらにはわたしたちの人生には何か良いものもあるかもしれませんが、それでも主はわたしたちに手放すようにとうながすこともあるのです。もっと自分の近くで従うためです。ちょうどここで起きたことのようです。彼らはすべてを残していった、と福音は語っています。『そして舟を岸に引き揚げ、すべてを置いて行きました。船も、網も、すべてです!そしてイエスに従ったのです』」。

 しかしながら、パパフランシスコは、自分に従うように選んだ人が闇に留まるためにすべてを置いてくるようにとは望んでいない、と確認した。 その反対で、目的はすぐに明確化されます。それはダイナミックな目的です。

 「イエスは決して使命を述べずに『わたしについてきなさい!』とは言いません。違います!『わたしに従いなさい。そうすれば私はあなたにこうしたことをしますよ』、『このために、わたしに従いなさい』と。『もしあなたが完全になりたいなら、完全になるために手放し、従いなさい』。いつも使命です。わたしたちは何かをするためにイエスの道をいくのです。イエスの道をいくということは、見せものではないのです。イエスの後ろについて行くのは、何かをするためです。それが使命(宣教)なのです。

 その説教の最後の方に差し掛かって、パパ・フランシスコはこう言った。約束、願い、使命。この三つの時というのは、活動的な生活においての御考慮に入れなければならないものではありません。祈りにおいても、そうなければならないのです。一方で、「イエスの言葉も信頼も約束もない祈りは、いい祈りとは言えません」と確言した。次いで言った。何かを手放す準備ができるようにキリストに願うことはよいことです。そしてこのことが三つ目の時の準備になります。なぜならイエスが「何かをするように」とインスピレーションを与えないような祈りはないからです。

 「その慰めと平和と約束の言葉をもって主を感じるのが、キリスト者の本当の祈りです。 すぐについて行き、使命を引き受けるのを阻む何かを脱ぎ去る勇気を持つこと。これはそのあと誘惑がないことは意味しません。たくさんあるでしょう!けれど、ごらんなさい、ペトロはひどく罪を犯し、イエスを否みました。けれどさらに後で主はペトロを赦しました。ヤコブとヨハネ・・・競争をする望み、もっと偉くなりたがる、という罪を犯しました。けれど主は彼らを赦したのです」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

0 件のコメント:

コメントを投稿