2013年9月6日金曜日

9月3日(火)、朝ミサ説教:イエスの光は一味違う

 9月 3日(火)聖グレゴリオ一世教皇教会博士(記)
          一テサロニケ5・1-6、9-11
          ルカ4・31-37

 「イエスがいるところには、いつも謙遜、素直さ、愛があります」。聖マルタの家で今日9月3日火曜日に祝われた朝ミサの説教の中で、パパ・フランシスコはこう断言した。ローマ司教は特記して、わたしたちの心に語りかけるイエスの「穏やかな光」とわたしたちを傲慢で威張らせる「人工的な光」の違いを語った。

 キリスト者のアイデンティティは、「光にあって、闇にはありません」。パパ・フランシスコはイエスの最初の弟子たちに向けた聖パウロの言葉からその説教を発展させた。「兄弟たち、あなたたちは闇に属するものではありません。あなたたちは皆、光の子なのです」。この《光》は、「世にはあまり快く受け入れられてきませんでした」。けれどイエスは、まさに罪からわたしたちを救うために来たのである。「その《光》はわたしたちを闇から救うのです」。一方、こんにちは「科学的な物事や人間性からのものごとがたくさんあって、そうした」光をもつ「可能性があるということを考えることができます」。

 「すべてを知ることができ、あらゆることの科学的知識をもつことができ、ものごとについての照らしを得ることもできるでしょう。けれどイエスの光には違いがあります。無知の光ではありません。違います!それはsapienciaの光、知恵の光ですが、世にある光とは違うのです。世がわたしたちに差し出す光は人工的な光です。強いかもしれませんが、-イエスのあの光はもっと強いですけどね、でしょ?-人の手で作られた炎のように、写真のフラッシュのように強いものです。一方イエスの光は、柔らかい光です。それは穏やかな光です。平和の光です。クリスマスの夜にある光のようです。見せかけではありません」。

 パパは「自らを捧げ、平和を与える」光であると説明しながら続けた。イエスの光は「イベントのものすごいアトラクションのようなものではありません。それは心にやってくる光なのです」。けれど、「しばしば悪魔は光の天使を装ってやってくることも確かです。悪魔はイエスのまねをし、よいふりをし、穏やかにわたしたちに語りかけます。ちょうどイエスに断食の後、砂漠で語りかけたようにやるのです」。ここに、主に「いつイエスがわたしたちに光を与え、またいつまさに光の天使を装って悪魔が働いているのかを知るために、識別の知恵」を求めなければならない所以があるのである。

 「光の中で生活していると信じながら闇の中にいて、しかもそのことに気づかないでいることが、わりとあります。イエスがわたしたちにもたらす光はどういうものでしょうか?イエスの光を知ることはできます。なぜなら、それはへりくだったつつましやかな光だからです。強引に押し付けてくる光ではありません。へりくだっているのです。それはおとなしさの力で穏やかにしてくれる光です。心に語る光であると同時に、あなたに十字架を差し出す光でもあります。もしわたしたちが心の中の光において素直な人間であるならば、心の中でイエスの声を感じ、恐れることなく十字架を見ることになります。それが、イエスの光です」。

 けれど一方で、もし「鼻高になる」ようにする光、「他の人を上から目線で見、他者を見下し、傲慢にするようにと導く」光が来たならば、それはイエスの光ではありません。それは悪魔の光、イエスや光の天使を装った悪魔の光です」。

 このように教皇は、真の光と偽りの光とを見極める方法を示した。「いつでもイエスがいるところには、謙遜、素直さ、愛があります」。 そこで「十字架に対する恐れなく」彼の後をいかなければならないのです。イエスの光に従わなければなりません。なぜならイエスの光は美しく、とてもわたしたちの益になるからです」。

 結びにローマ司教はこう語った。今日の福音で、イエスは悪魔を追い出し、人々は、一言で不純な諸霊を追い出す姿を前に何が何だか分からなくなっています。

 「イエスには悪魔を追い出すための訓練の必要がありません。おごりは必要ではないのです。力や誇りは必要ないのです。『あの言葉には何があるんだろう?不純な霊たちに権威と力をもって命令すると、彼らは出ていく!』。それは謙遜で、素直で、愛に満ちたことばなのです。渡したちの十字架の時に共に歩んでくださる言葉なのです。主に今日、イエスの光の恵みをいただけるように願いましょう。イエスがわたしたちに、イエスからの光の時と人工的な光、敵によってだますためにつくられた光の時の見極め方を教えてくださるように願いましょう」。
(RC - RV).

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