2013年12月2日月曜日

11月29日(金)、朝ミサ説教:「歴史の中で神さまの通り道」を理解するために「キリスト者のことを考える」


 「時のしるしをよく理解するために聖霊がわたしたちに下さる能力、今日主に求めなければならない恵みはこれです」。キリスト者は神に従って考えます。そしてそのため弱く画一的な考えを拒みます、とパパ・フランシスコはこの金曜日の聖マルタの家でのミサの中で強調した。そして時のしるしを理解するためには、キリスト者は頭だけではなく、心を使い、聖霊と共に理解しなければならない、と説明した。

 その日の福音について回想をしながら、教皇は主はその弟子たちに時のしるし、ファリサイ派の人々には理解ができないしるしを理解するようにと教えていることを指摘した。「歴史における神さまの通り道」を理解するために、「キリスト者のことを考える」べきである。「福音において、イエスは怒りませんが、弟子たちが物事を理解しないとそう見せかけます。エマオの弟子たちに、「頭が悪く、心の鈍い者たち」と言います。「あぁ、なんと頭が悪く、心の鈍い者たちよ!…神さまのものごとが分らない人というのは、そういう日音です。主は何が起こっているかをわたしたちが理解することを求めています。何が自分の心に起こっているのか。何が自分の人生に起こっているのか。世界に何が起こっているのか。歴史に何が起こっているのか。今起こっていることことは何を意味するのか?こうしたことが時のしるしなのです!一方、世俗の精神は別の提案をします。なぜなら世俗の精神はわたしたちが民であることを求めないからです。世俗の精神はわたしたちが考えもなく自由もない大衆となることを求めるのです」。

 ローマ司教は繰り返した。「世俗の精神はわたしたちが画一性の道を行くように望みます」聖パウロが忠告しているように「世俗の精神は、わたしたちが自分で物事を考えられないかのようにわたしたちを扱います。自由ではない人としてわたしたちを扱います」。

 「画一的な考え、みな同じ考え、弱い考え、どこにでも広まっている考え。世俗の精神は神の前でわたしたちが『でも、これはなぜ、あれはなぜ、なぜこんなことが起こるのでしょう?』と問いかけるのを望みません。さらには『その気になったら考える』というようにわたしたちの好みに合わせたプレタポルテ(既成服)の考えを提示します。これが自分らにはいいんだ、と言っています。けれど世俗の精神はイエスがわたしたちに求めているものを望みません。自由な考え、神の民の一部を成す一男子、一女子としての考えを。そして救いというのは本当はここにあるのです!預言者たちについて考えてごらんなさい。『お前はわたしの民ではないが、今はあなたに言おう「わが民よ」と。こう主は言われる』。そしてこれこそが救いなのです。民になること、神のためになること、自由を得るために」。

 イエスはわたしたちに自由に考えるように求めます。何が起こっているのかを理解するために考えるようにとわたしたちに求めます。実際はわたしたちだけはできません。時のしるしを理解するためには主の助けが必要なのです。そして聖霊がこのプレゼント、このような賜物をくれます。他の人が自分に何が起こっているかを語っているからではなく、自分で理解するための知能を下さるのです。

 「主が望む道はどれでしょう? いつも時のしるしを理解するための知能の精神をもって。主イエスにこの恵みを求めるのは美しいことです。主がわたしたちに理解の精神を送り、弱い考え、画一的な考え、自分の好みに基づいた考えではなく、神が望むような考えをもつことができますように、と。この頭と心と魂を使う考えをもって、聖霊の賜物であるこの考えをもって、物事が何を言わんとしているのかを求め、時のしるしをよく理解できるように」。
(CdM - ER -RV)

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