2020年12月30日水曜日

使徒的書簡『父親の心で』 5.クリエイティブな勇気のある父親

 


 もしも真の内なる癒しのあらゆるステージの最初の段階が自分自身の歩みの歴史を歓迎すること、つまり、自分自身の中に、自分の人生において自分で選んだわけではないものも含め、そのための場を作ることであるならば、もう一つの重要な特徴を付け加える必要があります。クリエイティブな勇気です。これは、特に困難に出会うときに生じます。実際、ある問題に直面する時、わたしたちは、自分の動きを止めて、両腕を下げてしまうこともあり得ますし、あるいは何らかの仕方でこれに対処できるすべを身につけることもあり得ます。時々、困難は、まさに持てると思いもしなかったような能力を私たち一人一人の中で輝かせるきっかけになり得ます。

 しばしば、「幼児期の福音」を読みながら、なぜ神は直接明白な仕方で介入しなかったのだろうかと自問することがあります。けれど神は、出来事や人々を通して行動します。ヨセフは、贖いの歴史のはじめに神がその存在で満たした人です。ヨセフは、神が彼と共に幼子とその母親を救ったという、ほんものの「奇跡」でした。天は、この人のクリエイティブな勇気を信頼して介入しました。ヨセフがベトレヘムに着いて、マリアが出産するための場所を見つけることができなかった時に、馬小屋に入って環境を整え、そこを世に来られようとしていた神の御子のためのもっとも歓迎する精神に満ちた場へと変えたのです(cf. Lc 2,6-7)。幼子を殺したがっていたヘロデの差し迫る危険を前に、幼子を守るために今一度夢の中で忠告を受け、夜中にエジプトへの逃亡計画を整えました(cf. Mt 2,13-14)

 こうした物語の表面的な読書からは、いつもは世界が強い人、権力ある人に都合の良いようにできているような印象が与えられるものですが、福音の「良い知らせ」とは、地上的な為政者の傲慢や暴力にもかかわらず、神がその救いの計画を実現するための道をいつも見出す方法を示して下さることにあります。わたしたちの人生も、より強い権力の手の上にあるように思われることがしばしばですが、福音は、「摂理」に信頼をいつも何よりも前において、問題を一つの機会に変容させることができたあのナザレの大工と同様のクリエイティブな勇気を持つことを条件として、神は重要であるものをいつも救うことができると語っています。

 もし時々、神がわたしたちを助けてくれないと思われるならば、それはわたしたちを神が見捨てたということではなく、わたしたちにある、計画し、発明し、出会う能力に信頼しているということなのです。

 これは、中風の人の友だちが、イエスに彼を連れていくにあたり、天井から彼を下した時に示したあのクリエイティブな勇気と同じです(cf. Lc 5,17-26)困難はあの友人たちの大胆さと意地を留めることはできませんでした。彼らは、イエスが病人を癒すことができると信じて疑いませんでした。そして「群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」(vv. 19-20)。その人たちが病気の友人をイエスの下まで何とかして連れて行こうとしたクリエイティブな信仰を認めたのです。

 福音はマリアとヨセフ、イエスがエジプトにとどまった時に関する情報を一切与えていません。しかしながら、確かなことは、食べたり、家を見つけたり、仕事を見つけたりする必要性があっただろうということです。この点にかんして福音の沈黙を生めるためにはそれほど多くの想像力を必要とはしません。聖家族はほかのどの家族とも同じような具体的な問題、わたしたちの移民兄弟姉妹たち、逆境や飢えのために否応なく命を危険にさらしている今日の移民の皆さんと土曜に、具体的な問題に向き合わなければなりませんでした。この点に関して、聖ヨセフは本当に、戦争や憎悪、迫害や悲惨な状況が理由で自分の土地を離れなければならないすべての人々にとって特別な聖なる保護者であるとわたしは思います。

 ヨセフが主人公になっている各物語の最後に、福音はヨセフが立ち上がり、幼子とその母親を連れて、神が自分に命じたことを行ったと指摘しています(cf. Mt 1,24; 2,14.21)。実際、イエスとその母マリアは、わたしたちの侵攻のもっとも貴重な宝物です[1]

 救いの計画において御子を、「信仰の巡礼の旅路を進み、忠実にその子との一致を十字架に至るまで保った母から分けることはできません」[2]

 常にわたしたちは自問しなければなりません。神秘的な仕方で私たちの責任、ケア、見守りに託されているイエスとマリアをわたしたちは全力で守っているかどうか、と。全能者の御子は世に来て、大いなる弱さという条件を引き受けました。防護され、保護され、ケアされ、育てられるためにヨセフを必要としました。ヨセフの中に自分の命を救うだけではなく、いつもマリアやその幼子のために目を覚ましていることになる姿を見出したマリアがヨセフにするのと同じ仕方で、神はこの人に信頼しました。この意味で、聖ヨセフは、教会の庇護者でなくなるということはあり得ません。なぜなら「教会」は歴史におけるキリストの「体」の延長であり、同時に、教会の母性のうちにマリアの母性を示すからです[3]。ヨセフは、教会を保護し続けると同時に、幼子とその母親を庇護し続けています。そしてわたしたちも、教会を愛しながら、幼子とその母を愛し続けるのです。

 この幼子こそ、後に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(Mt 25,40)と言うことになる方なのです。このように、困窮にある人、貧しい人、苦しむ人、死が間近な人、外国人、刑務所の人、病人一人一人が、ヨセフが庇護し続けている「子」なのです。そのため聖ヨセフを貧しい人の保護者、困窮者の保護者、流刑者の保護者、苦しむ人、貧乏な人、死が間近な人の保護者として呼びかけられるのです。そして同じ理由で、教会はより小さな者たちを愛さずにはいられません。というのも、イエスが彼らを優先し、個人的に彼らと自分を同類とみなしたからです。わたしたちはヨセフから、同じケアと責任を学ばなければなりません。幼子とその母を愛することを。諸秘跡と愛徳の業を愛すること、教会と貧しい人たちを愛すること、こうした現実の一つ一つの中で、いつも幼子とその母を愛することを。



[1] Cf. S. Rituum Congreg., Quemadmodum Deus (8 diciembre 1870): ASS 6 (1870-71), 193; B. Pío IX, Carta ap. Inclytum Patriarcham (7 julio 1871): l.c., 324-327.

[2] Conc. Ecum. Vat. II, Const. dogm. Lumen gentium, 58.

[3] Cf. Catecismo de la Iglesia Católica, 963-970.

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