バチカン、5月31日21時18分(バチカンラジオ)
聖母月を締めるにあたり、パパ・フランシスコは金曜日の午後、サン・ピエトロ広場に集まった何千もの信者や巡礼者たちと共にロザリオの祈りをささげた。ローマ司教がこの敬虔な祈りをささげている間、信徒のあらゆる意向を受けながら聖母像が広場の間を練り歩いた。教父は一つの黙想を分かち合い、使徒的祝福をしてこれを結んだ。
傾聴、決断、行動。ローマ司教はすべての人のためにこのマリアの特徴を求め、彼女のように世に福音の光をもたらすことができるようにとマリアに祈った。
聖母月締めくくりのロザリオの祈りの終わりのパパ・フランシスコによる黙想
愛する兄弟姉妹の皆さん、
この夕刻、わたしたちは共にロザリオの祈りをしました。イエスの歩みの出来事、わたしたちの救いの出来事のいくつかの場面を歩み直しました。そしてそれをわたしたちの母である方、マリアと共に行いました。わたしたちを確かな手でその子イエスに導いて下さるあの方と共に。
今日、幸いなるおとめマリアの従姉エリザベトへの訪問の祭を祝いました。皆さんと共に、この、どのようにマリアが大いなる現実性、人間らしさ、具体性をもってその人生の歩みに立ち向かうかを示す奥義を黙想したいと思います。
マリアの態度を要約する三つのことばがあります。傾聴、決断、行動です。傾聴、決断、行動。人生において主がわたしたちに求めているものを前に、わたしたちにも道を示す言葉です。傾聴、決断、行動。
1.傾聴:どこからマリアの、従妹エリザベトのところに行こうという行為が生まれるのでしょう?神の使いの一つのことばからです。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。・・・」(ルカ1章36節)。マリアは神に耳を傾けるということを知っていました。よく聞いて下さい。これはただの表面的な「聞く」ではなく、「傾聴」、つまり注意深さ、受容、神に応える心構えを示す行為です。それはわたしたちが主や他の人を前にしてするような気が散った仕方ではありません。御言葉を耳にしますが、本当には聴いていないのです。マリアは神に注意を払っています。神に耳を傾けます。
けれどマリアは出来事にも耳を傾けます。つまり、自分の人生に起こっている出来事を読むのです。具体的な現実に注意を払い、表面的なところに留まらず、深い所に行き、意味を見出します。従姉のエリザベトは、すでに年をとっているけれど、男の子の誕生を待っています。これが出来事です。けれどマリアはその意味に注意を払います。そのことを理解できるのです。「神にできないことは何一つない」(ルカ1章37節)。
このことはわたしたちの生活にも役立ちます。わたしたちに語る神に耳を傾け、また日々の現実にも耳を傾けること、人に注意を払い、出来事に注意を払うことです。なぜなら主がわたしたちの人生の扉の前に立ち、様々な仕方でこれを叩き、わたしたちの道に道しるべを置かれるからです。わたしたちの中にこれを見る能力が与えられているのです。マリアは傾聴の母です。神への注意深い傾聴、また人生の出来事への注意深い傾聴の母です。
2.二つ目のことば。決断。マリアは「急いで」生きているわけではありません。つまり、心配しながら生きているわけではないのです。そうではなく、聖ルカが強調しているように、「マリアは これらのことを心に収めて、思い巡らしていた」(ルカ2章19節、51節参照)のです。そして天使のお告げの決定的瞬間にも、彼女は問いかけます。「どうしてそのようなことがありえましょう?」(ルカ1章34節)と。しかし考えを巡らせる時ですら留まらず、一歩先に進みます。決断をするのです。急いで生活しているのではなく、ただ必要であれば、「遅らせずに行く」だけです。マリアは出来事に振り回されません。決断の苦労も避けません。そしてこのことは、自分の人生を変えてしまうような根本的な選択においても続けられるのです。マリアはそこで言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1章38節)。より日常的な様々な決断の時、とはいってもその決断には豊かな意味があるのですが、そうした時にもです。わたしの脳裏にカナの結婚式の話(ヨハネ2章1―11節)が浮かんできます。ここでもマリアの現実性、人間性、具体性が見受けられます。出来事、問題に注意を払っています。祭りのぶどう酒が足りなくなるかもしれなくなっていた、若い新婚の二人の困難を見て、理解します。考えを巡らし、イエスに何かできることを知っており、「もうぶどう酒がありません」と割って入るために息子に向かっていく(3節参照)ことを決断します。
人生において、決断するということは難しいことです。しばしば後回しにしたり、他の人が自分の代わりに決断するように任せたりする傾向があります。しばしば出来事の流れに任せたり、その時の流行に乗ったりする方を好みます。しばしば何をしなければならないか分っていながら、勇気がなかったり、流れに逆らっていかなければならないのであまりに難しすぎると映ったりするのです。マリアは、お告げの時、訪問の時、カナの結婚の時、流れに逆らっていきます。神に耳を傾け、考えを巡らし、現実を理解することを求め、神に完全に委ねることを決断し、自分もおなかに子を宿した身でありながら、年老いた親せきを訪問することを決断し、結婚式の喜びを保たせるために執拗なまでに息子に信頼することを決断するのです。
3.行動。マリアは旅に出て、「急いで(遅らせずに)・・・行った」(ルカ1章39節)。この前の主日に、このマリアの行動様式を強調しました。困難や出発の決断のせいで受けるであろう批判にもかかわらず、何ものを前にしても留まりませんでした。そこで、「遅らせずに」出発するのです。 祈りにおいて、語りかける神の前で、自分の人生の出来事について回想し黙想することにおいては、マリアは急ぎません。その場限りのことに捉われたり、出来事に振り回されたりはしません。しかし神が何を自分に求めているか、何をしなければならないかがはっきりするやいなや、遅れません。後回しにしません。「遅らせずに(急いで)」行くのです。聖アンブロシウスはこのようなコメントをしています。「聖霊の恵みは遅さをもって振舞わない」(Expos. Evang. sec. Lucam, II, 19: PL15, 1560)。マリアの実行は天使の言葉への従順の結果ですが、愛徳と一つになっています。何かの役に立てればとエリザベトのところに行きます。そしてこの家から出るということ、愛のために自分自身から出て行くことが、自分の持っているもっとも高貴なもの、すなわちイエスを連れて行くということになるのです。我が子を連れて行くのです。
しばしば、わたしたちも傾聴するため、自分が何をしなければならないのかに関して考えを巡らすために留まります。おそらく、決断しなければならないことが何かもはっきりします。けれど行動に移らないことがあります。そして何よりも、わたしたちの援助、理解、愛徳を運んで他の人に向かって「遅らせずに」自分から動いて行ってそれに賭けるということをしません。またマリアのように、持っているものでもっとも高貴なもの、わたしたちが受けたもの、つまりイエスとその福音を、言葉をもって、そして何よりも、わたしたちの行動の具体的な証しをもって運ぼうとしないのです。
傾聴、決断、行動。
傾聴のおとめマリアよ、わたしたちの耳を開いて下さい。この世に氾濫する何千もの言葉の中から、あなたの子イエスの言葉に耳を傾けることができるようにしてください。わたしたちが生きている現実に、またわたしたちが出会う人一人ひとり、特に貧しい人、欠乏にある人、困難にある人に耳を傾けることができるようにしてください。
決断のおとめマリアよ、わたしたちの考えと心を照らして下さい。ためらうことなくあなたの子イエスの言葉に従うことができるようにしてください。決断の勇気、他の物事がわたしたちの人生を左右するのに流されない勇気を与えてください。
行動のおとめマリアよ、わたしたちの手や足が「遅れることなく」他の人々に向かって動き、あなたの子イエスの愛徳と愛をもたらすことができますように。あなたのように世において福音の光をもたらすことができますように。アーメン。」
このロザリオを唱えたこと、母マリアを囲んだこの一致に感謝します。彼女が皆さんを祝福して下さいますように。皆さんをますます兄弟姉妹としてくださいますように。お休みなさい。よく疲れを取って。
(イタリア語からの翻訳:グリセルダ・ムトゥアル、バチカンラジオ)
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