2013年6月1日土曜日

5月31日、朝ミサ説教:この喜びはわたしたちを自由にする

朗読個所  :聖母の訪問(祝)
          ゼファニア3・14-18
          ルカ1・39-56

バチカン、5月31日15時14分(バチカンラジオ)
 聖霊はキリスト者の喜びの「製作者」であり、福音を宣べ伝えるためには神の霊が与える喜びを心に運んでいる必要がある。このことをパパ・フランシスコは聖マルタの家で金曜日の朝に祝われたミサの中で語った。

 パパと共に共同司式に上がったのは、ファリアダバッド・デリー、クリアコセ・バラニクランガラの大司教であるヨゼフ・トムコ枢機卿と、ベロ・オリゾンテの大司教、ワルモル・オリヴェイラ・デ・アゼヴェドである。参列者の中にはバチカンの経済奉仕の従業員グループが見受けられた。 

 「葬式の」顔ではイエスを伝えることはできない。ローマ司教は悲しみで彩られたキリスト者の生活をある種理解できることに関して輪郭を描いた。パパは今日の二つの朗読をもとに回想した。第一朗読は預言者ゼファニアのもので、「喜び叫べ!・・・・・・主なる神はお前のただ中におられ」るという歓呼を告げる。二つ目の朗読は福音からのもので、エリザベトと、マリアのあいさつの言葉を聞いた時に胎内で「喜び踊った」息子について語る。そこで、この前の週日のように、いま一度パパはマリアが「急いで」その従姉を助けるために旅に出たことを強調した。そこで、教父は見解を述べた。「そこにはどこでも喜びがあふれていて、パーティーのような喜びです」。「一方、わたしたちキリスト者は歓喜や喜びについて語ることに、あまりよく慣れていません」と続けた。「恐らくわたしたちはその何倍も嘆くことを好んでいるのです」。一方で、「わたしたちに喜びを与えるのは、聖霊です」。

「まさに聖霊がわたしたちを導くのです。聖霊こそが喜びの製作者、歓喜の創造主なのです。そしてこの聖霊における歓喜 がキリスト者の本物の自由を与えるのです。歓喜がないならば、わたしたちキリスト者は自由になることはできず、わたしたちの悲しみの奴隷になってしまいます。偉大なるパウロ六世は言っていました。悲嘆にくれるキリスト者、落胆し、元気のないキリスト者をもってして福音を前に持っていくことはできない、と。出来ないのです。少し葬儀のようなこの態度では、でしょ?しばしばキリスト者は神をたたえに行く顔というよりは、葬式に行く顔をしていることの方が多い、違いますか?そしてこの喜びから賛美が訪れます。このマリアの賛美、このゼファニアが触れている賛美が、このシメオンの賛美、アンナの賛美が、神の賛美が訪れるのです!」

 ではどのように神に賛美を捧げるのだろう?自分自身から出て賛美をするのである。「無償(かけひきなく)で、 神がわたしたちに下さる恵みが無償であるのと同様に」とパパは説明をした。そして次のような問いを投げかけながら神に祈る仕方についての良心の糾明を促した。

 「あなたは、ミサのためにここにいます。神を賛美しますか?それとも神に何かを願うだけか、感謝するだけですか?賛美というのは、新しい出来事です。わたしたちの霊的な生活において新しいのです。神を賛美する、賛美するためにわたしたち自身の殻から出る、賛美するために時間を浪費する、ということは。『このミサは、なんて長かったんだろう!』と言います。ミサが長く感じられる時は、あなたが神をたたえない時です。神を賛美しながら時間を浪費することのあの無償性を知らない時です。けれどもしあなたがこの喜びの態度、神の賛美の態度で向かうなら、それはとても素敵なことなのです!永遠性というのはそういうものです。神を賛美すること!そしてそれはつまらないことではなく、最高に素敵なことなのです!この喜びがわたしたちを自由にするのです」。

 この賛美の模範が、この歓喜の模範が、また今回も、イエスの母にあるのである。「教会のマリアさまのことを『わたしたちの喜びの理由』、カウサ・ノストゥレ・レティツィエと呼びます。なぜでしょうか?それは大いなる歓喜、つまりイエスをもたらすからです」とパパ・フランシスコは思い返させた。

  「わたしたちはおとめマリアに祈らなければなりません。なぜならイエスをもたらしながらわたしたちに喜びの恵み、歓喜の自由の恵みを下さるからです。賛美する恵み、無償の賛美の祈りをもって賛美する恵みを下さるのです。イエスはいつも賛美に値します。おとめマリアに祈り、教会が言っているようにマリアに向かって言うのです。尊い婦人マリアよ、来てください。婦人よ、わたしたちを訪れてください。あなたは実に偉大な方です。わたしたちを訪れ、歓喜を下さい!」
(MZ, RC-RV)

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