マルコ10・32-45
バチカン、5月29日16時10分(バチカンラジオ)
この日の福音は、エルサレムに向かう道のイエスが弟子たちにその受難、死、復活を知らせるところを語っている。これは信仰の道である。パパはこの火曜日、聖マルタの家での説教の中でこう説明した。「弟子たちは他のプロジェクトのことを考えていました。道の半分まで行くことでした。彼らにはそこで止まった方がよかったのです」。そして「彼らは互いにどのように教会を調整しようか、どのように救いを解決しようかと議論するのです」。そうして、ヨハネとヤコブが、主の栄光において、一人を右に、一人を左に座らせてくれるようにとイエスに頼み、これが他の仲間たちの間で教会においてだれが一番重要なのかという議論を引き起こすのである。
「弟子たちの誘惑は、イエスが砂漠で、悪魔が他の道を提案する時に受けたのと同じ誘惑です」。「すべて早く済ませてしまえ、奇跡を起こせ、全世界が見ることのできることをしてみろ。神殿を見て、仕掛けもパラシュートもない飛び降りを遂げてみろ。そうすれば全世界が奇跡を見て、そうやって贖いが実現するだろう」。これはペトロが最初の時にイエスの受難を受け入れられなかった時と同じ誘惑である。「これは十字架のないキリスト教の誘惑です。道の途中にあるキリスト教です」。「十字架のないキリスト教の誘惑」、「道の途中にあるキリスト教」は、父が望むところに到着したがらない。「これは勝利主義の誘惑なのです。わたしたちは今日の勝利を求めます。十字架に向かわない、世俗的な勝利、理にかなった勝利を求めるのです」。
「教会における勝利主義は、教会を滞らせます。キリスト者における勝利主義は、キリスト者を立ち止まらせます。勝利主義に満ちた教会は、道の途中にある教会です。そういう形で幸せな教会は、身の回りの品もよく準備され、よく整備されています!事務所がたくさんあって、すべてがうまく行きます。いいでしょう?効率的で。けれど、殉教者となるのを拒む教会は、十字架の道のために殉教者が教会に必要であることを知りません。勝利、成功だけを考える教会はイエスのあの規律を知りません。失敗、人間的失敗、十字架の失敗を通しての勝利を。そしてこれがわたしたち皆が持っている誘惑なのです」。
パパは、その後で、自分の人生の具体的な時期を思い出した。
「かつて、自分の霊的生活において闇の時を通っていたことがあります。そして主に恵みを求めていました。数名のシスターたちに霊操の指導をしに行きました。そして最後の日にゆるしの秘跡がありました。そこに、80歳を超えた年寄りのシスターが告解のために来ました。年寄りですが、目はきらきらと、とても輝いていました。神の人でした。告解の終わりに、この人が本当に神の人だと思ったので、彼女に言いました。『聞いて下さい、償いとして、わたしのために祈ってください。恵みを必要としているからです。いいですか?もしあなたが主に頼むなら、必ず主はわたしにそれを下さるでしょう』。しばらく静かになりました。祈っているかのようでした。そしてわたしに言いました。『もちろん主はあなたにその恵みを下さるでしょう。けれどだまされないでください。主はその恵みを、ご自分の神らしい方法で下さいますから』。主はいつもわたしたちが求めるものを下さるけれど、ご自分の神らしい方法で下さると感じる、このことはわたしに役立ちました。そして神らしい方法というのは終わりの時までこれにあります。神らしい形というのは、十字架にあるのです。マゾヒズムのためではありませんよ、違います。違いますよ!愛のためです。極みまでの愛のためです」。
そしてこれが、教父がその説教を結んだ祈りである。
「主に、道の途中の教会、勝利主義の教会、大きな成功の教会ではなく、謙虚な、イエスのように決意をもって歩む教会となれる恵みを求めましょう。前に、前に、前進して。イエスのように父のみ旨に開かれた心で。この恵みを求めましょう」。
ER - RV
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