2013年5月28日火曜日

5月28日、朝ミサ説教:イエスの道から十字架を取り除くことはできない

朗読個所  :  シラ35・1-12
          マルコ10・28-31


バチカン、5月28日14時58分(バチカンラジオ)
 
 イエスの宣言は、絵画などの表面にある緑青やニスではなく、人の心まで入り込み、わたしたちに変化をもたらすもの。このようにパパ・フランシスコは聖マルタの家における朝ミサの中でこの火曜日に確言した。パパは繰り返し、イエスに従うということはより大きな権力を持つことを言うのではない、なぜならその道は十字架の道だからである、と述べた。このミサの共同司式者は新福音化推進評議会の議長のリノ・フィスィチェッラ卿と秘書のホセ・オクタヴィオ・ルイス卿であった。また、同じ省の司祭が数人、熱電気中枢の従業員と、バチカンの大工工房の従業員が参列した。 

 「あなたに従ってまいりましたがその報いとしていただけるものは何でしょうか?」パパ・フランシスコはその説教を、このペトロの問いではあるが深い所では、全キリスト者の人生と関わりのあるこの問いかけから始めた。パパの観点では、「イエスは、自分についてくる人たちはたくさんの美しいものを得るだろうけれど、迫害が伴う」ものである。続けて言った。「主の道は、『屈辱』の道です。十字架のうちに終わる道なのです」。付け加えて言った。「ここに、なぜいつも困難や迫害があるのかの所以があります。いつもそれはあり続けるでしょう。なぜなら主がこの道を、わたしたちよりも前に取ったからです」。「キリスト者がその生活において困難がないというとき、すべてのことがうまく行き、すべてのことが美しい、という時、何かがうまく機能していないのです」ということに気づくようにと教父は促した。「それは世の霊(精神)、世俗性とすごく友達であるのではないかと考えられます。そしてこれがキリスト教と独特の誘惑なのです」と確認した。

 「イエスに従いはしますよ、でもある程度のところまで、と言う人、文化的な形でイエスに従うこと、つまり、わたしはキリスト者ですよ、キリスト教の文化がありますからと言う人がいます……。けれど、そこにはイエスへの本物の追従や、その道を踏襲する強要力はありません。もし文化の提案としてイエスに従うようなら、この道が、回を重ねるごとにさらに昇格すること、より大きな権力を持つことに用いられるということです。教会の歴史にはこういうことが満載です。皇帝数人を挙げることから始め、実に多くの政府がそうですし、他の多くの人々もそうでしょう?違いますか?そしてある人たちは―多くの人々とは言いたくありません。ある人たちなのです―、司祭であったり、他は司教たちだったりするわけですよね?ある人たちはそういう人はたくさんいると言います。イエスに従うというのは、キャリアを積むことだと思っている人もいます。

 パパは思い出して言った。「二世紀前の文学を見ると、しばしば子供のころから教会のキャリアを積んで昇って行くことを夢描いていた、と言う言い回しが普通になっていた時期がありました」。そして「実に多くのキリスト者たちが、世の精神によって誘惑され、イエスに従うのがいいのはキャリアを積んで昇格できるからだと考えています」と指摘した。しかし「これは精神ではなく、むしろペトロの態度です。キャリアのことについて語り、イエスが彼に応えます。「そうです、あなたにすべてをあげましょう。迫害も一緒に」。というようなものである。「イエスの道から十字架を取り除くことはできません。いつもそこにあるのです」。けれどパパはまたこれはキリスト者が互いに害を及ぼし合わなければならないということを言いたいわけではない、と厳密に語った。キリスト者は「愛によってイエスに従う人です。そして愛のためにイエスに従う時、悪魔の妬みが実に多くのことをするものです」。「世の霊(精神)は、これに耐えられません。証しに耐えられないのです」と観察した。

 「マザーテレサのことを考えてください。マザーテレサについて 世の精神がどんなことを言っているでしょうか?『あぁ、福者テレサはいい人です。他の人たちのためによいことをたくさんしました』。世の精神は、決して福者テレサは毎日、何時間も聖体礼拝のためにじっと座っていたことを言いません。絶対に、です!キリスト者の活動を社会の慈善を行うことに狭めるのです。まるでキリスト者の存在がキリスト教主義の表面にあるニスや緑青であるかのように。イエスの宣言は緑青ではありません。イエスの宣言は骨に届き、心に届き、内側まで届き、わたしたちを変えるのです。そしてこのことに世の精神は耐えられないのです。これに耐えられないので、迫害が生じるのです」。

 イエスに従うために自分の家、自分の家族を離れる時、「すでにこの今という時に」100倍受ける、とローマ司教は指摘した。迫害と共に100倍、です。そしてこれは忘れられてはなりません。

 「イエスへの追従とはまさにこのことです。愛のために主と共に、主の後ろにつく。同じ道を行くことです。そして世の精神はこれに耐えられず、わたしたちを苦しめるけれど、かつてのイエスと同じような一つの苦しみなのです。この恵みを求めましょう。イエスがわたしたちに見せ、教えてくれた道を通ってイエスに従うことです。これは素敵なことです。なぜなら決してわたしたちを一人きりにしないからです。決して、です!主はいつもわたしたちと共にいてくださるのです。
 (RC-RV)

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